ポリアの思考術

今年は本を50冊読もうという目標を持ってスタートした。

そんな今年の一冊目に読んだ本が丸善出版の「数学×思考=さっくりと いかにして問題をとくか」だ。

これを最初に一冊にしたのには特に意味はなくて、今までに積ん読になっていた本の中では比較的読みやすかったので、たまたま読んだというだけである。

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と、そんな読んだ経緯はともかくとして、さて本の内容だ。

この本は数学者のポリアが記した「いかにして問題を解くか」という著作に記されたポリアの教えエッセンスを抽出して一般向けに記されたものだ。

ポリアの教えは25箇条からなっており、物事を論理的かつ効果的に解決していくための物事の見方をしたものであるが、残念ながらその文章を読んだだけでは分かりにくいものもある。

例えば問題解決のためのステップ1の3は「適当な記号を導入して図を書いてみよう」となっている。

数学の教養のある人なら、ウンウンと頷くかもしれないが、その人達を除けば何がなにやらということになりかねない。

その他の教えもそんな調子で、少し分かりにくいポリアの教えを噛み砕いて教えてくれるのがこの本である。

例えばポリアの教えのステップ1の4「条件の各部分を分離してみよう」では「ある都市にピアノの調律師は何人いるか?」という問題を題材にして解説している。

はて、そんな問題を解いて何か意味があるのだろうか?、ともしかしたら思う人がいるかもしれないけれども、ビジネスをしていく上で、この商売において潜在顧客がどのくらいいるのだろうかとか、実質的な競合相手がどのくらいいるのであろうかなどという問題に対して、はっきりした数字がない中で挑戦していかなくてはならない場面は決して少なくないはずだ。

しかも、そんなはっきりしない状況でありながらも、例えば推定する潜在顧客の数が10万人である場合と100万人である場合には販売予測やプロモーションの展開など全く違う予想になってしまう。

従って、一見数学的に見える予測の問題であっても、実はビジネスでも教育でも政治的な活動でも、重要なものだということが分かると思う。

とは言えデータのはっきりしない状況では完璧に見積もるということは困難である。

しかし、完璧な見積もりはできないにしても、概ね誤差の範囲を桁が違わない程度で推測することができれば十分に有効であるし、そのためにはどのようにすれば良いのかというのがこの問題に要点で、これは「フェルミ推定」と言われている。

この問題を解くには専門的な数学的な知識は必要ないし、推定するための計算も難しくはない。

ただし、考え方を理解している必要がある。

さて、問題のピアノの調律師の数というのは、その都市における人口とその住民がピアノを持っている割合、そしてそのピアノが一年で何回調律が必要とされるのかということ。

これが分かれば一年間のピアノ調律の需要があるのかが判明する。

そして、その需要に対して調律師が何人いれば需要が足りるのか、ということを考えると調律師の人数が推定できる。

これらの予測に用いるデータは、都市の人口は統計データで明らかであるし、ピアノの普及率はある程度の推計でも大雑把には間違えないだろう。

細かく知りたければピアノの販売データと廃棄データからおおよその予想が付く。

ピアノの調律が年に何回必要で、1人の調律師が年に何件ほどの調律がこなせるかは経験がないと分からないが、これはピアノの調律師か、ピアノを所有している人にインダビューすれば分かるだろう。

こうして集めたデータがあれば、特に数学の教養がなくても、ある年におけるピアノの調律師の人数を求めることが出来るわけだ。

本の中では、もうちょっとざっくりとした人数を計算によって求めているが、いずれにしても概数を推測するということでは、役に立つ考え方だろう。

こうやってポリアの教えの幾つかについて、ざっくりと考えることによってでも、概ねの数字の大きさや考える方向性が分かるんだよ、というのが本書の要点だ。

そんな風にして数学などに馴染みのない人であっても、色んな値の推計などができるようになるということが書いてある。

現代はコンピューターが発達して様々なデータを集積することがどんどん容易になってきていて、その集めたデータから何が見えてくるのかを考えるのが人間の仕事になってきている。

そういう時代には情報処理のスピードではなくて、方向性を見つけることが重要であり、それを身につけるためにはこういう本でデータをどのように見れば良いのか知ることは一助になるのではないかと思う。

 

数学×思考=ざっくりと  いかにして問題をとくか

数学×思考=ざっくりと いかにして問題をとくか

 

 

思えば多感な時期でした

今週のお題「人生に影響を与えた1冊」ということで、思い返せば本から受けた影響というのは、それなりにあっただろうと思う。

少年期に影響を受けたのは、もちろん小説なども読んでいて赤川次郎司馬遼太郎やらを読む一方でライトノベルなんぞも読んでいたが、印象に強く残っているということで言えば科学系の書籍だろうか。

小学生の頃で言えば「科学的とはどういうことか?」という本で、いわゆる科学的思考を養う上で影響を受けた一冊であったように記憶しているが、何しろ小さい頃に読んだ本であるので、どのくらい影響を受けたのかということについては記憶が定かではない。

物心がしっかりとついてから読んだ本ということでは「ファイマン物理学」「ホーキング博士宇宙を語る」などが印象に残っている。

その後、科学を学ぼうという意識を持つうえで、それを強化することになった本である。

しかしながら、科学について強い興味を持つに至った一番大きな影響を与えたのはそれらの書籍ではなくNHKで放送された「アインシュタインロマン」であったから、残念ながら、これらを人生に影響を与えた一冊というには、ちょっと違うのかなと思う。

では、科学を学ぼうという意識とは別に人生全般について指針と成るような本がなかったかと考えてみると、一番影響を受けているのではないかと思うのは司馬遼太郎の「21世紀に生きる君たちへ」だ。

これは小学生に向けて書かれた司馬遼太郎が伝えたいメッセージのこもったエッセイであり、元は小学生の教科書へ掲載すべく書かれたものであった。

第二次世界大戦を経験して、日本という国の成り立ちについて深く考え、歴史小説を書くまでになった司馬遼太郎が、過去の歴史ではなく未来に向けて書いた若者への応援歌のような文章である。

内容としては小学生の、しかも中学年程度を想定して書かれていると思われるので、決して難しい内容ではない。

しかしながら、何度も推敲して書かれた文章は、一言一言に無駄がなく、我々が人生を生きていく上で何をこころがけていくべきであるのかということを見事に書ききってあり、それは決して子どもたちだけではなく、実際に21世紀という時代を生きている我々に対して訴えかけてくるものがある。

決して大げさな文章ではなく、どちらかと言えば淡々とした内容ではあるのだが、それが逆に読むものを深い思いへと駆り立てるものだ。

決して長い文章ではないし、おそらくこれを掲載する多くの書籍が、もう少し上の年齢層に向かって書かれた「洪庵の松明」という一遍も収録しているが、両方合わせても10分ほどで読めてしまうほどの内容である。

しかしながら、そこに込められたメッセージは司馬遼太郎がそれまで生きてきた何十年の思いが感じられる。

この本は自分の人生を歩んでいく上で、具体的にこういうふうにしようとか、そういう決断を導くような本ではないが、今でも時々読み返しては、自分の生き方が正しいのかと羅針盤になるような一冊だ。

そして、これからも人生という航海を進む上で、進むべき方角を教えてくれるものであり続けるろ思っている。

東京までの道程

今夏、世界レベルのスポーツ大会が相次いで行われてニュースを賑わしている。

自分の把握している程度であるが、世界規模の大会やその予選があり大きな話題となっている競技を列挙すれば「水泳」「陸上」「バレーボール」「バスケットボール」「柔道」「ラグビー」「テニス」「フェンシング」「野球(U-18)」「シンクロ」「レスリング」「サッカー」などなど。

もちろん、リオ五輪の前年ということもあり多くの大会が行われるというのは当然ではある。

団体競技はオリンピックの参加資格を得るべくして行われる大会があるし、個人競技であってもオリンピック前年ということで大きな注目を集める大会が開催される。

個人種目の場合、競技団体に寄ってはその結果によりオリンピックの出場権を与えるというものもある。

もちろん、オリンピック出場を目指す団体・競技者は、それらの大会に出場して高記録を目指すわけであり、必然的に注目度は高くなる。

そして、それらの結果は来年のリオ五輪の結果を占う上でも参考となるだろう。

しかし、日本人としては来年のリオ五輪はもちろん気になるところではあるが、それと同等かそれ以上に東京五輪のことについても気にせざるを得ない。

このところニュースでは国立競技場の建設問題や東京五輪のロゴ問題などの競技の本質とは少し離れた部分での話題が多く残念なところではあったが、これだけのニュースになるということはやはり注目度は大きいのだなと改めて実感させられる。

そして東京五輪は国民の関心事であるとともに日本のスポーツ振興において大きな分岐点になり得るイベントであるし、究極的な目標として日本中のアスリートや競技団体が目標とするところであるだろう。

そんなオリンピックのことを自分は5年も先、というかなり未来ということでここ最近まで過ごしてきた。

けれども競技の実績を残すということを考えると意外に遠くない未来なんだな、ということを今年の夏の各種世界大会で実感させられた。

象徴的なのは世界陸上で行われた男子100m決勝だろう。

ウサイン・ボルトジャスティン・ガトリンの対決が話題となった北京の世界陸上であったが結果としては、この両者が接戦で、わずかに100分の1秒差でボルトが金メダルを獲得した。

この2人の実績を見るとガトリンは今から11年前のアテネ五輪の男子100mの金メダリストであり、ボルトは7年前の2008年の北京五輪の男子100m金メダリストである。

つまり全ての競技ではないにしても、世界のトップクラスで戦えるレベルの選手というのは、そう何人もいるわけではなく、そしてその一部の選手が長期間にわたってしのぎを削る世界であるということだ。

そのように考えると東京五輪まで後5年という時期に差し掛かっている現在、日本人選手が世界に伍して戦えている種目はどれほどあるのか、ということを考えると少し暗い気持ちにならざるをえない。

もちろん、世界陸上でいえば桐生祥秀であり、世界水泳でいえば萩野公介が不在であったということを考えれば、結果を鵜呑みにしなくてもいいと考えることもできる。

だが、反面1人の選手が出場しないだけでその種目の実績が大幅に交代するのであれば、日本には本当にその種目における実力が備わっていないということではないだろうか?

どうしても普通に生活をしていれば5年という年数は決して近い未来ではないけれども、スポーツの強化ということや人材の育成ということを考えれば5年という時間はとても短いといわざるを得ない。

近年、躍進しているフィギュアスケートやバトミントンなどの競技はジュニア時代の選手を育成する地道な努力を10年以上に渡り行ってきたとことが、ようやく結果に結びついてきているとも言われている。

本当にある競技の裾野を広げて、底上げをしようと思えば5年という年月は中途半端であり、揺るぎない人気と実力を身に付けるというところにまでは至らないだろう。

しかし、そんな育成・強化ということを考えれば決して長くはないであろう時間の中でどのように東京に結びつけていくのか、あるいは東京の先に日本にスポーツ文化を根付かせて世界で輝く人材を育成していくのか、中長期の視点を持って捉えることができる最後に近いタイミングではないだろうか?

来年のリオ五輪が終われば、次は東京ということで様々な競技団体に対して、どうしても結果が求められていく段階に入っていく可能性が高い。

そうなる前に、競技としての底辺を厚くして、実力をつけて、未来につなげていくための構想力や組織力を整えていくことができるのか。

そのためには、意外にここから1、2年ほどが正念場なのかもしれない。

そんなことを考えさせられた8月から9月のスポーツシーンであった。

学びと時間

どうもブログがさぼり気味。

ブログを書くということは文章を構成して組み立てて形にするというスキルを必要としている。

日頃から長文を書くことが少ない身の上としては、このブログをサボってしまうということは、文章能力や伝える力の低下に直結するわけで危機感はあるものの、一方で生活パターンの中に組み込んでいない現状では、こんなものなのだろう。

しかし、知力であれスキルであれ、どんなことであっても練習をして日々積み重ねていくことによって研鑽されていく一方で、やらなければ衰えていくものである。

人間が、何がしかのスキルなどを身につけるためには、およそ1万時間ほどがかかると言われている。

スキルと言っても趣味というレベルを超えてある程度のプロに近いレベルのスキルということではあるようだけれども、この時間についてはちょっと計算してみると納得ができる。

年間2000時間の労働時間を持っているとすると約5年ほどで1人前ということ。

スポーツなどだと、子供はそこまで時間をかけることは難しいが、仮に半分の1000時間くらいを部活に使っているとして10年くらい。

小学生で始めたスポーツが大学生や社会人くらいになると技術的にも安定してくるということで感覚的にも頷けるレベルではないだろうか。

まあ、アメリカで学者が研究をした結果ということなので、サンプルの質がどこにあるかは分からないが、まとはずれということはないだろう。

 

さて、はてなブログ今週のお題「いま学んでみたいこと」についてということで、何かを学ぶということを考えたら、そんなスキルを習得する時間の話を思い出したのだが、何を学びどの程度を目指すのかということにより、かけるべき時間は違ってくる。

1万時間というのは社会人として求められるレベルの仕事のスキルであるとか、プロやセミプロ級のスポーツ選手などのレベルである。

まあ、それなりに形になるレベルであればTEDでは20時間なんていうプレゼンもあったが、これだと形になるレベルか。

自動車学校の教習時間や週1程度の学校の授業時間が、比較的これに近いところだろう。

ある程度しっかり学んだというのであれば100時間ほどはあった方がいいのではなかろうか?

100時間というと専門学校などの学校で1ヵ月ほど学んだり、週3日、1回1時間で1年続けたくらいになるが、そこまでやればそこそこのレベルには達するイメージだ。

これが得意ですと自慢をして言えるレベルに達するのには、ということであれば500ー1000時間くらいだろうか?

もちろん、時間を費やせばいいというわけではなくて、生まれてから今まで100時間以上を優に上回るほどの時間を使ってきた日常生活の様々な行動が形になっているかというと、学ぶという意識がないために、そんなことにはなっていない。

もちろん、四六時中スキルを高めようだなどと意識していては倒れてしまうので、もちろん無理な話だが、取り組む姿勢がなければ、そんなものということだ。

そう考えて時間のことを思うと、何か1つに取り組むというのが意外に自分の今の生活スタイルでは難しいなということにも思い至る。

自分の場合は一日の中でルーティーンと言える作業をかなりきっちり組み込んでいるので、余暇時間でありながら自由時間でもなかったりして自分で自分の首を締めている面がある。

知識を増やしたい、スキルを身に着けたい、という思いがないではないけれども、そのために必要な時間をどのようにして作っていくのか、時間の取捨選択というところがまずは必要なことなのだろう。

<追記>

時間のことを考えているうちに、ふと思い出したことがある。

老後の自由時間の話だ。

老後の自由時間は人によって多少違いはあるけれども一般的に言われるのは8万時間から10万時間ほどだ。

もちろん、これは定年退職をして平均的な寿命まで健康に生きていれば、という前提なので全ての人に与えられるわけではないし、一方でそれ以上の時間を得られる人もいるだろう。

しかし、いずれにしても老後と言われる時間はたっぷりとある。

プロやセミプロ級のスキルを8~10個も身につけられるだけの時間だ。

もちろん、全てを自己啓発には使えないかもしれないが、3つ4つのスキルを身につけるだけでも大いに楽しい人生になるはずだ。

良く年をとると若さが羨ましいということを言われるが、現代の日本においては老いることが本当は羨ましいのではないだろうか?

若くもなく、老いてもなく、しかし人生の中で岐路に立つと言われる年代としては上も下も、そして今も大事なのだとは思うけれども。

上を向いて歩こう


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我が家にぬいぐるみがある。
魔女の宅急便の登場人物?であるジジのぬいぐるみだ。
皮肉屋でありながらも愛らしくもある彼である。
その横顔はどんなだろうかと、ふと興味を持った。
まあ、振り返ってみれば以外に作品中でセリフが多くはない彼であるから、その横顔と言っても見れる部分は知れているだろう。
まあ、せいぜい物理的な横顔だろうか。
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と、まあこんな感じだ。
別に代わり映え見ない横顔である。
前から見たのと比較して、正面から見たのと比べて愛嬌はあるような、さほど変わらないような。
微妙なところだ。
でも、そういう風に見えるのは一つの側面を見ているからかもしれない。
違う側面は、そうではないかもしれない。

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違う側面は上を向いた希望に満ちた顔をしているように見える。
正面と左側と同じぬいぐるみと同じものを見ているのに、右側から見ると、印象がまるで違ってしまう。
もちろん、ただのぬいぐるみだから、これを見る側面を変えたからと言って、だからどうということはない。
ジジは、元に戻せばジジでしかない。
けれども、ジジでなければどうなるだろう。
人であれば、仕事であれば、社会であれば、見方の違いが決定的になることもあるだろう。
ものを言わないぬいぐるみでも、そんなことを教えてくれると気がついた今日の小さな発見だ。ぬいぐるみ M おすましジジ (黒猫・ねこ・ネコ) NEW (魔女の宅急便) 【スタジオジブリ】


ウェアラブルデバイス元年?

Apple watch の発売間近。

ここ数年、ウェアラブルデバイスだとかスマートデバイスであると言われる身に付けるデジタル機器は数年前にGoogleグラスが発表されてから徐々に盛り上がり、去年くらいから製品数が大きく増えてきたように思う。

その中で本命と言えるのがApple watchだろう。

売れる、売れないという議論はあるし、事前に使用したライターの中でも、好意的な意見から、長くは使わないという意見まで割れている。

しかし、今までに登場してきた他のウェアラブルデバイスと比べて製品としての完成度は高いようだし、プロモーションも大々的に行っている。

また、日本ではスマホの中に占めるiPhoneの比率が諸外国に比べて高いので、そういう意味でもApple watchが受け入れられる素地は十分にあるように思う。

また、スマホの進化が停滞気味のここ最近の情勢を考えると、ウェアラブルデバイスが次の注目の的になってもおかしくはない。

スマートバンドを使ってみての感想

自分は去年から、ソニーのスマートバンドを使っている。

これは腕に巻くバンド型の高機能な活動量計である。


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ウェアラブルデバイスと言われるなかでは、最もシンプルな部類のものである。

もちろん、単純に歩数を計るだけではなく、歩く、走る、自転車や乗り物に乗っているという移動手段を見極めることが出来て、さらに睡眠時間のログも取れるということで、なかなか便利だ。

この活動ログはBluetoothで接続したスマートフォンで確認することが出来るようになっている。


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さらに、スマホとの連携ではスマホの通知情報を受け取れるようになっている。

通知の方法は、と言えばディスプレイがないので振動するということのみである。

しかし、これが意外と便利でばかにできない。

例えばスマホがカバンの中に入れてあったり、家の中で離れた場所においていると着信に気がつかないことがある。

さらに、スマホをしばらく手にするタイミングがないような状況だと、そのまま気がつけば数時間経過ということもあるが、バンドのおかげでそのようなことはない。

また、範囲外防止アラームという機能がついていて、こちらはスマートフォンの置き忘れなどの防止機能だ。

ペアリングしたスマートフォンとの距離が離れたりしてBluetoothの接続が切れそうになるとスマートバンドが振動して、圏外になりそうなことを知らせてくれる。

自分の場合、どこかに置き忘れということはあまりないが、出かける時に持ち忘れということが何度かあり、スマートバンドを持っていたことで防ぐことができたことが何度か有る。

画面表示がなくできることが少ないため不満がないわけではないが、一方で単純であるがためにバンドと併せてわずか26グラムという軽さで、普段は付けていることを意識しないで済むし、防水防塵対応であるために手を洗うなどで外す必要がないというのも便利なところだ。

バッテリーは満充電で5日間という長期間対応。

これは睡眠ログを取る活動量計であるので夜間充電できないということを考えると毎日充電しなくても大丈夫というのは良いところだ。

そんなわけで、スマートバンドについての簡単な感想だが、ではこれを時計型のデバイス、同じソニー製品であればスマートウォッチというそのまんまの製品があるが、これに切り替えたいかというと難しいところだ。

スマートウォッチの弱点

スマートウォッチは基本的にはスマートバンドとくらべて高機能なデバイスだ。

また、性能等の違いはあれどもApple watchについてもスマートバンドで出来ることの大半を内包した上に、さらに様々なことが出来るようにはなっている。

しかし、一方で高機能になることによってトレードオフ関係になるものもある。

まずは最大の障害は時計というデザインと大きさの問題だろう。

自分は右利きなので、右手に何か巻いているとはっきり言って邪魔に感じる。

なので日頃から腕時計とスマートバンドを両方共に左手に付けている。

しかし、スマートウォッチとなるとそうは行かないだろう。

時計かスマートウォッチどちらかということになる。

もちろん、TPOに応じて使い分けるということになるだろうが、活動量計をメインとして考えている自分としては、それはちょっと悩ましい話だ。

継続的に記録することに意味があるので、なかなか外しにくいがファッションということを考えればスマートウォッチでは合わない場面も多いだろう。

次に、電池の持ちという問題もある。

スマートウォッチは2日間という公称値。

一方、Apple watchは18時間という公称値。

さすがに48時間持つデバイスであれば大丈夫そうかな、と思うが18時間というのはいささか不安である。

もちろん、90件の通知を受けたり30分のワークアウトをしたりということで実際に使用している環境下での数字であるが、人によって使い方は違うだろうし、バッテリーの劣化もある。

そうなると、やはり丸一日は持たないということも出てくるのではないだろうか。

これはスマホでも電池が持たないで一日の途中で充電するということで、結構面倒に思うことが有るのだが、これにウェアラブルデバイスも加わるとなると、ストレスに感じてしまいそうだ。

また、ディスプレイがあるためメールなでの通知を見ることができるが、簡単な内容ならばともかく、本格的な文章となると大きさの点でも画面を見る姿勢の点でも苦しいだろう。

音声入力を日常にできるか

そんなウェアラブルデバイスであるが、不便さのある反面で魅力があるのも事実だ。
スマホと違い常に身に付けることができるメリットは大きい。
健康管理系のものはたくさん出ているが、最近は心拍数を常時測定するものまであり、いわゆる運動好きな人ではなくとも使える。
また、通知についても細かく設定できるものであれば気になる通知だけでも知らせることができ、スマホをちらちら見たりしないで済む。
また、置き忘れ防止やアラームを振動で知らせる機能はなにかと便利で、集中して仕事しているときにも役に立ったりする。
しかし、そんなウェアラブルデバイスが本当に便利なものとして普及していくのには、音声入力が必要だと思う。
自分の場合は文章で検索するときは音声入力を利用しているが、人前では気恥ずかしいこともある。
しかし、最近は精度も高くなっているので、キーボードで文字入力するよりもずっと便利だ。
そして、音声エージェントもかしこくなっているので、返答もある程度は期待できるだろう。
が、やはり日本人が町中で「Hey siri」とか「OK!  google」とか言うのは抵抗がある。
原因としては擬人化するのが恥ずかしいという面があるので、もっと機械的に「コマンド入力」とかの方が恥ずかしくないかもしれない。
もしくは「アスラーダ」とか「ナイト2000」とかの方がマニアには受けてじわじわ広がるかもしれないか。

 

久しぶりのブログ、そして宇宙のこと

久しぶりにブログを書こうと思いパソコンに向かっている。

はてなダイヤリーでブログを書いていたのは、もう1年以上前のことになるだろうか。

ブログを書かなくなった少し前からはてなブログが、はてなダイヤリーに変わってブログサービスとしてはじまったというのは知っていたけれども、乗り換えるような理由もなかったので、特に書いていなかったが再び始めるのをきっかけに、はてなブログにしてみるのもいいかと思って再スタートしてみる。

以前から読んでくれている人、というのはほとんどいないと思うけれども、ブログのスタイルとしては日常の中で思って事や感じたことをとどめておきたいと思ったことにうちネットに公開してもいいと思えるものを公開していく。

そういう意味では日記に近いスタイルである一方で、公開情報であるからには人の読んで意義あるものでありたいと思う面もある。

 

そんなわけで、今回のブログでのテーマは天体望遠鏡

と言っても、天体望遠鏡については詳しいということはない。

子供の頃に家にあったのは覚えているけれども正直なところ程度としては1-2万円程度の安物であったし、自分があまりにも小さい頃であったのでまともに活用した記憶がない。

それから30年近くが経過して科学館などで望遠鏡に触れる機会はなかったけれども、偶然もあって長野で流星群を観測したりする機会に恵まれているうちに、徐々に望遠鏡への渇望が湧いてきたのが今の状態。

もちろん、興味があって望遠鏡を購入しようと思っても、本格的な何十万もするものを購入するのはハードルが高いので今考えているのは数万円レベルの望遠鏡である。

使い道としては月や惑星、あるいは星団の観察に使えるのに加えて天文写真の撮影にも挑戦したいとは思っているが写真の種類にも色々とあって手軽なところから本格的なところまで、その間には大きな差があるようだ。

自分も天文の知識については、世間の平均よりはあるつもりではあったけれども実際に購入するとなると、それはまた別物。

望遠鏡が天体を見るにしても屈折式と反射式がある、ということは知っていてもそのメリットとデメリットとなると、また考えなくてはならないし、具体的にどんな天体がどのくらい見えるのかというと、それもまた望遠鏡により様々であるので、狙うものによって考えなくてはならないし。

コスト、メンテナンスの手間、取り回しややりたいこと。

知っているつもりでも新しいことをするには知識がたくさんい必要なんだな、なんて当たり前のことを実感したりしている。

今のところ望遠鏡の購入候補としては「Vixen PORTAⅡ A80Mf」であるのだけれども、一方でVixen以外のメーカーは見てないので、もう少し調べてからにはなるだろうか。

いずれにしても試すということが難しい製品なので、下調べをじっくりしつつ。

でも、天体観測の機会は逃さずに購入したいと思っている。

 

Vixen 天体望遠鏡 PORTAII A80Mf 39952

Vixen 天体望遠鏡 PORTAII A80Mf 39952