宗教の時代到来か?
「あなたは神を信じますか?」
この質問を受けて日本人のうち、どのくらいの人が「はい」と答えるだろうか?
「はい」「いいえ」「どちらともいえない」の三択を選択肢とした場合、おそらくは「どちらとも言えない」が最も多くなり、「はい」が最も少なくなるのではないかと思う。
また、ちょっと質問を変えて
「あなたは人智を超えた存在がこの世に存在すると思いますか?」
こう問いかけてみるとどうだろう?
先ほどと同じ選択肢だった場合、今度は「はい」が最も多くなり「いいえ」が最も少なくなるのではないかと思われる。
ところが
「あなたは特定に宗教を強く信奉していますか」
と聞くと「いいえ」が最も多く、「はい」が最も少なくなるだろう。
この日本人のなんとなく超自然的なものは存在するだろうけれども、特定の何か具体的な神様や教祖様がいて、我々を導いてくれたり、教えを与えてくれるとは思っていないぼんやりとした宗教観を持っているのが日本人の多数だろう。
そんな日本人は、これから宗教とどのように関わっていくべきなのか、その1つのヒントになりそうなのが「池上彰の宗教がわかれば世界が見える」を呼んだ感想だ。
本の構成としては、まず池上彰が考えている日本人の宗教観についての序文があり、そのあとは様々な宗教家や宗教の研究家に対するインタビューで構成されている。
インタビューの中身は仏教、神道、キリスト教、イスラム教などのそれぞれの宗教家らに対してその宗教の日本におけるあり方と日本人との関りなどを質問する構成となっている。
もっとも池上氏が博識なので、多少のことは分かっている前提で話が進んでいくので、日本人として社会常識レベルの知識は必要だが、難しい部分についてはテレビ番組よろしく池上氏が言い直しをしてくれたり、かみ砕いた内容になるように質問をしてくれるので、とかく難しくなりがちな宗教の話としては分かりやすく読むことができるだろう。
もちろん、新書で複数の宗教のことを取り上げるので、知識として深いところにまでというところにはいかないものの知っているつもりの仏教や神道のことであっても、改めて聞いてみると知らないことがたくさんあるのだと感じたし、それ以上にイスラム教については、歴史の教科書で習った知識に加えて、テレビのニュースなどで見る断片的な知識だけしかない自分にとっては新しい知識が多く得られた。
例えば女性が肌を露出してはいけないとされているが、それについての直接の根拠となるコーランの文書はなく「女性の体のうち外に出ている部分は仕方がないが、それ以外の美しいところは隠せ」と書かれているが、それをどのように解釈するかによって違ってくる、ということだった。
こんな曖昧な書き方だと、その解釈によって振る舞いが大きく違ってくるためトルコのような世俗的な国家もあれば、サウジアラビアなど厳格なイスラム教国もあり、ということになるのだと言われて大いに納得した。
そのような様々な宗教のことを知り知識を得るということは、宗教的対立が国際的な問題の大きな要因の1つになっている現代においては、それを理解する一助になるだろう。
そんな世界を知るということとは別に池上氏は団塊の世代が宗教というものを真剣に考える年齢になってきたことについて何度か触れていた。
この本が書かれたのは2011年であるから団塊の世代は60代前半であった。
仕事をリタイアして自分の親の世代を見送り、老後の生活を送りながらも、周りでも病気であの人が亡くなったという話もちらほら聞こえるようになり、次は自分の番として現実的に考えるようになってきた、と。
これは彼が団塊の世代と呼ばれる年代よりは1つ下になるものの、ほぼ同年代として感じていた実感なのだろうと思う。
人に取って死というのは、現代日本ではあまり身近な問題ではないかもしれないけれども、それを身近に感じるようになってきたときに宗教というものを考えるのだと。
確かに、多くの宗教は死語に天国に行く、極楽浄土に行く、そのために現世で善い行いをしなさい、というような死を出発点としているものが少なくはない。
そういう意味では、死というものを考え始めると自然と宗教的なものに行きつくのかもしれない。
自分の死に際して、あるいは身近な人の死に対して、忌むだけではなくきちんと向かい合うためにも宗教というものについて理解しておくことも必要なのかな、ということも考えさせられた。
自動運転のもたらす未来は①
自動運転がここ最近になって急に話題になってきた。
以前よりGoogleが自動運転車を開発していることは知られていたが、去年あたりから急激にニュースにも取り上げられるようになり、各自動車メーカーが開発している自動運転車の状況についても次々に報道されるようになった。
実際に2016年になってテスラのモデルSがモデルチェンジでソフトウェアアップデートにより部分的自動運転が可能になることになり、さらには日産が高速道路における同一路線限定ではあるが自動運転車を投入を発表。
今後で言えば2017年には日産は高速道路の進路変更が可能な自動運転車を投入することを宣言しており、トヨタを始めとして他のメーカーも2018年以降には同等の車両を投入するとされている。
そして、2020年を目標に複数のメーカーが、一般道まで含めた部分的自動運転の実現を目指していると言われており、一気に自動運転の実用化がなされるだろうとの予測もある。
さらに、これを後押しするように政府が自動運転を実用化するために特区による実証実験を推進しており、2017年からは自動ブレーキなどを搭載した車両の任意保険を割り引く制度が開始される見通しであるなど、様々な面から自動運転の実現に向けた動きが広がっている。
そんな自動運転であるが、どんな技術があるのかであるとか、どのタイミングで実現されるであろうかということは様々に予想されているが見通しはばらつきがある。
ましてや、実際に自動運転の社会が実現した場合にはどのような社会的なインパクトがあるのかということが語られることは少ないように感じる。
自動車はシェアリングされる環境へ向かうであるとか、免許も必要なく飲酒しても車に乗れるようになれば生活が激変する、なんて話もあるが、それは完全自動運転が実現される頃の話であるので、短くても15年以上先のことになるだろうし、一般に普及するとなるとさらに年月を要するだろう。
ということで、そこまで先のイメージをすることはなかなか難しい。
よって、それに至る以前にどんなことがあるのかということを少し考えてみたい。
さて、自動運転がどのように社会に影響を与えるのかを考える上では自動運転がいつ実現するかということも大事であるが、どのくらい普及するかということも大事になってくる。
世の中に完璧に自動運転できる車が存在したとしても普及率1%では、それが与える影響というのは限定的にならざるをえない。
そういうわけで今後の普及率の予想についての資料をネットで探ってみたのだが、世界的な普及率予想というのは数字が幾つか見つけることが出来たのだが、日本国内における予想というのは見つけることが出来なかった。
これは民間団体における普及率予想というのがビジネスベースの話を前提としているために、世界規模の話が中心となるからだと思うが、それでは日本における社会的な影響度は推測できない。
というわけで幾つかの公開資料から日本における普及率の推移を予測してみた。
まず、自動運転と言っても段階が幾つかに分かれている。
自動運転の定義の分け方についてはアメリカの運輸省交通安全局(NHSTA)が示しているものを基本として考えていきたい。
その定義ではアクセル、ブレーキ、ハンドルの操作のうち、いくつを自動化しているかということで定められており
レベル1 アクセル、ブレーキ、ハンドルの1つが自動化されている状態。一般的にはブレーキのみが自動化されている衝突被害軽減ブレーキが想定される。
レベル2 アクセル、ブレーキ、ハンドルの2つが自動化されている状態。一般的にはアクセルとブレーキを自動化した前車追随のクルーズコントロールが想定される。また、運転手に緊急事態が生じた際に路肩に車を寄せて車両を停止させるデッドマンシステムもここに含んでいいと思うが。
レベル3 アクセル、ブレーキ、ハンドルの全てを協調制御している状態。いわゆる一般にイメージする自動運転の状態であるが緊急時には人が介入することが求められる。
レベル4 アクセル、ブレーキ、ハンドルの全てを自動制御されており、さらに人間の介入が必要ない完全に自動運転を実現した状態を言う。
このうちレベル1と言われる自動ブレーキなどのレベルはすでに実用化がされている。
代表的なものはスバルのアイサイトであるが、それ以外にも各メーカーから様々なタイプが発売されていて、普及は急速に進んでいる。
実際、日産はすでに主要車種に自動ブレーキの標準装備化を行っているし、スバルも販売数量の8割以上がアイサイト搭載となっている状況にある。
とは言っても新車販売の大半が、自動ブレーキ搭載車になったとしても既存の車両との置き換えがすぐに進むわけではないので、買い替えとともに徐々に進んでいくという事情があるのも事実である。
そのような状況にあるものの2016年以降の新車販売は大半が自動ブレーキ以上の自動運転機能を搭載すると考えると一気に普及していく可能性は高い。
予想される普及率は、様々な予想はあるが2015年時点では10%弱程度と予想される普及率が2020年までは新車販売の8割以上に自動ブレーキが搭載され、それ以降の車両は大半が自動ブレーキに対応する(改正道路交通法でいう準中型以上の貨物車は2021年には義務化される)ことを考えると
2020年 30%以上
2025年 60%以上
2030年 90%以上
と言った推移になることが予想される。
もっとも100%にはなかなかならないだろうし、二輪車などについては運転補助機能が搭載されるのは2020年代以降と予想されるので世の中の車両全てということではないが、四輪車が全体の中の比率が圧倒的に高いことを考えると、この普及率は大きいだろう。
この自動ブレーキのような機能に対する普及率予想は、そんなに大きく外れることはないだろうと思われる。
なぜなら今後2-3年でほぼ標準装備化して、既存の車両と入れ替わっていくので、その入れ替わるペースを予想するだけだからである。
しかし、ここから先のレベル2以降になってくると予想が入り乱れているなというのが様々なシンクタンクが発表している数字を見た印象だ。
これらがどうなるかについては技術的な問題だけではなくて、社会的に自動運転を受け入れられるかということや政治的に様々な課題を普及を妨げないように解決していけるのかということがあるので、容易ではない。
しかしながらレベル2について言えば、レベル1で実現している機能の高度化ということで考えれば意外に早く普及するのではないかと思っている。
実際に、前車追従クルーズコントロールなどはすでに標準装備している車も少なくはないし、基本を人が運転するということをベースにしているので、ある程度人が運転に関与しなければ自動運転状態を解除する、あるいは人が居眠り、病気で運転できない等の事象が発生していると予想して、徐々に速度を下げながら安全な場所を見つけて停車するなんて機能を組み込むことで、かなり有効性が高いとして受け入れられるだろう。
先に書いた普及率の予測から遅れること2、3年程度で同等の普及率が実現される可能性も高いと思う。
一方で、レベル3ということになると事実上は完全自動運転の世界であるために、これ以上の段階の普及については、予想が難しい。
もっとも、レベル3についてはすでに実現化している自動駐車システムであるとか同一車線内での進行を基本とした高速道路上における自動運転から始まり、車線変更も含める自動運転に、一般道における自動運転と段階が様々に分かれているので、どの段階を想定しているかによってもかなり違ってくるだろうとは思う。
そんなわけで予想が難しいレベル3ではなく普及が確実なレベル1、2の自動運転が普及していった場合のインパクトを中心に考えてみたい。
レベル1の自動運転がもたらす効果として一番分かりやすいものは、交通事故の減少ではないだろうか。
現在は自動運転の技術としては衝突被害軽減ブレーキや車線逸脱防止支援システム、後側方衝突防止支援システムなどがある。
このうち衝突被害軽減ブレーキについては、追突や対人の事故を防止することができるし、レーンキープアシストについては正面衝突や単独事故を防止することができる。
出会い頭や右直事故などを防止するには技術がまだまだであるが、これらを防止する技術についても、様々な方法があり一部は実現しつつある。
それらの様々な技術が、自動運転実現のためという方向で進んでいるのだが、衝突軽減ブレーキのように、それが目的であるものだけではなく、副産物としてであるものも含めて交通事故の減少に寄与する技術となっている。
例えば衝突被害軽減ブレーキについて考えてみよう。
衝突軽減ブレーキでは主に追突事故を防止することになるが、追突事故の9割以上が時速50km以下で発生している。
これに対して最新の衝突被害軽減ブレーキについては条件によるという前提はあるものの時速50km以下の場合は衝突を回避することができるようになっている。
統計データでは、追突事故は人身事故件数の3分の1を占めており、その9割以上が認知速度50km以下であるので、全ての車が最新の衝突軽減ブレーキを採用すれば、それだけで人身事故件数の3割近くは減少できることになる。
また、車線を逸脱しての正面衝突や車両単独の事故はレーンキープアシストで減少させることができるし、クルーズコントロールがあれば車両進行中における追突事故であるとか、速度超過による事故が防止できるのではないかと期待できる。
また、最新の衝突軽減ブレーキは対自動車だけではなく歩行者や自転車についても認識することができるようになっている。
歩行者や自転車の事故をどのくらい防止できるかについては細かい統計数字が存在しないため分からないが、スバルの発表したところによればアイサイトver.2搭載車両については対歩行者事故が49%削減しているという。
現在発売されいる車両で対歩行者の衝突防止支援システムはスバル除くと搭載比率が低いが、衝突軽減ブレーキが標準化が進み機能の選別がされるようになると、対歩行者の停止機能も標準化されるのではないかと思う。
そして、死亡事故件数の3分の1を占めている人対自動車の事故の一部でも減らすことができれば、それだけでも多くの人命を救うことに繋がっていく。
これらを考えると現在までに実現している技術だけで交通事故を半数以上減少させることができる可能性は高い。
さらにヘッドライトの自動点灯の義務化やハイビームとロービームの自動切り替えの搭載、バックモニターなどの後方安全確認装備の義務化、カーテンエアバックや後席エアバック、歩行者用エアバックなどの充実など自動運転以外の要素でも交通事故や発生時の被害を軽減する要素は増えており、実際にはもう少し事故発生件数も減らせるだろうし、事故発生した場合でも被害を軽減できるようになってきている。
ちなみに、交通事故による被害は2015年は死者数4117人、負傷者数67万0140人となっており、物損事故については正確な統計数字はないものの内閣府などの資料を見ると届け出のある件数では年間500万件程度である。
交通事故死者・負傷者が1人いれば、その当事者はもちろんとして、その家族・友人・職場関係など、関係する人々はその何倍といるわけで、それは人々の生活・人生に与える影響は決して小さくはない。
また、経済的にも交通事故による経済的損失については年間に4兆円程度とも言われており、これも小さい数字ではない。
これらが半減、あるいはそれ以上に減らせる、というのは素晴らしいというよりほかないだろう。
これら死者数の減少や経済的損失は事故が減少することによる直接的な影響であるが、自動運転技術のもたらす間接的影響も様々にある。
1つは現在問題になっている高齢運転者による交通事故だ。
ニュースで取り上げられるのは様々な病気により、繁華街で歩道などに乗り上げて事故を起こすケースであるが、それ以外にも高齢運転者による事故というのは多く発生している。
しかし、その一方で高齢運転者による事故は事故時の速度が低い傾向にあり、レベル1程度の自動運転技術により防ぐことが出来るものが多い。
と、ここまでは直接的影響レベルの話になってくるが、これらの技術により高齢運転者の事故を防ぐことができれば、高齢者の運転を継続させていく手助けになる。
特に、衝突被害軽減ブレーキとレーンキープアシスト。
それに加えて現在は実用化前であるが、運転手の状態を判断する人工知能技術を組み合わせることができれば、多少認知機能に不安があっても運転における危険性を大幅に軽減することが出来る。
高齢者が運転を継続できることは、超高齢化社会に向かっていく日本においては非常に重要な事である。
もし、外出するのに制約が大きくなれば誰かの補助が必要になってくるし、行動範囲が狭くなればそれだけ外部の人との付き合いが減少したりすることになるため、認知機能や身体機能の低下に繋がる可能性も高い。
その結果として、運転を継続することが高齢者自身の生活の質を上げることはもちろん、それらを取り巻く人たちにとっても負担は軽くなるし、社会全体にとっても高齢者を支える負担が減少することに繋がるだろう。
すなわち、自動運転技術がこれからの日本に迫る超高齢化社会を支えていく基盤の1つになっていく可能性は高いということだ。
一方で車の使い勝手がよくなるということは、それだけ車の利用頻度や依存度が高くなるということになるのだが、レベル3以降の自動運転に比べると、そこまで劇的な変化をもたらすというものではないと思うので、それは次以降に検討したい。
多様な世界で
■
今週のお題「わたしの本棚」
ということで記事を書く。
本棚というと、昔のイメージで言えば図書館と並ぶ知の集まる場所、と思っていたし、大学生か、社会人になってからしばらくするまでは本棚を見ることで、その人の人となりが推測できる、なんてことを思っていたりもした。
それは漫画も含めてではあるけれども、自分の身の回りにはある程度、日常的に読書する人たちがいて、その人たちとの交流を通じて得ていた経験であるし、インターネットが本格的に普及する前、本が知識の王様であった時代の話だった。
かくいう自分も学生時代までは本棚には収まりきらないほどの本があったし、何事かがあると本棚から本を引っ張り出して、様々なことを調べたりもしていた。
しかし、インターネットが普及して様々な知識がウェブ上に乗るようになり、また本自体も電子書籍という形でデジタル化したため知識の集積場所としての本棚の存在価値というのは以前に比べると低下しているように感じる。
自分自身も、小説など軽く読むような本と誰それの名言みたいな項目立てて知識を整理しているような本についてはキンドルで読むことのほうが多くなってきていて、実際に買う本はだいぶ少なくなってきた。
そのためか、以前に本を整理して実家に持ち帰っているせいもあるけれども、現在の本棚には隙間が目立つようになってきている。
本棚に並んでいる本は専門性のあるためにデジタル化されていない本となんとなく書店の店頭で立ち読みして購入した本と電子書籍では読みにくいだろうと思って紙の本にしたものと、だいたい、その3つが並んでいる。
本棚を見て特に目につくのは3つ目の紙の本をあえて選んで買った本だ。
最近、購入した本でいえば数学ガールとプレゼンテーション用の資料作成について書かれた本だが、これらは電子書籍化されているかはわからないけれども、そもそもレイアウトなどが端末などで変化してしまう電子書籍には向いていないだろうと思って買った本だ。
グラフの配置や数式の並び方などは、あらかじめ計算して配置されているはずで、それは当初の想定通りに読まなければ十分に味わうことは難しい。
また、これはそうでない人もいるかもしれないが、自分の場合は電子書籍を読むのはスマートフォンかパソコンになるのだが、それらで読んでいる場合には途中で通知が入ったり、ふとほかのことが気になったときにネットで検索を開始してしまったりして読書に集中することが難しい場合もある。
まあ、タブレットならそのあたりは多少ましなのだろうが、残念ながら自分は初期型のネクサス7しか持ち合わせていないため、さすがに現在使うのは酷である。
そんなわけで今の本棚には以前に比べると厳選した本が並ぶようになってきたかな、と思う。
ジャンルで言えば小説が3分の1、ハードカバーの実用書が3分の1、その他が3分の1と言ったくらいだろうか。
利用頻度は決して高いといえる状況ではないので、このブログを書いたのも何かのきっかけと思ってもう少し活用してみようかな、なんてことも思ったりしている。
三菱の燃費問題
三菱自動車の燃費問題が、補償金の発表と国土交通省による燃費データの好評があり、再び話題になっている。
統計の使い方
SmartNewsでニュースを見ていたら、こんな記事を見つけた。
まあ、記事についてはネットニュースでは釣りが多いので、これもそういう記事だろうと思ってみたら、中身も「煙草は健康に悪くない」と主張するかのような記事だった。
が、その論理は随分と乱暴で久しぶりにこんな記事を目にしたなと思う。
記事の中で煙草が体に悪くないという主たる主張の根拠となっているのは1970年台以降に喫煙率が低下しているのに、肺がんで死亡する人が増えているということと、肺がんの種別の変化と言ったところである。
詳しい主張は記事を見てもらえると分かるが、喫煙率の低下と肺がんによる死亡者数は見事な逆相関になっているように見えるため、一見するとなるほどと思いたくなるかもしれない。
しかし、肺がんによる死者数が増加するのにはいくつかの理由がある。
まず、第一には近年は高齢化が進んでおり死者数そのものが増加しているので、肺がんによる死者も必然的に増えている。
第二に、医療衛生環境の向上により他の死因による死者数が減少していることがある。
戦前、戦中には結核と肺炎が死亡の主たる要因であったが、戦後は悪性新生物と心疾患、脳血管疾患の3つが死亡の主たる要因になっていった。
しかし、近年では心疾患と脳血管疾患については生活習慣の改善などにより死亡率が低下しているものの悪性新生物、いわゆるガンについては有効な対策が見つからないため死亡率が低下せず、相対的に死者数が増加している。
第三に、日本人の寿命が伸びていることがある。
寿命が伸びるとその分だけガン化した細胞が体内に蓄積するため、それが増殖してガンとして病気が発症する可能性が高くなるため、相対的に死亡原因の上位に来ることになる。
これらガンの死者数が増加する原因が様々にあるにも関わらず、煙草の喫煙率の低下とガンの死亡者数の増加だけを単純に比較するというのは問題がある。
また、喫煙による死者数とガンの発病との関係については時間差があることについても記事の中では全く触れられていない。
例えば20歳の人が喫煙習慣があるとして、その人が死亡するリスクが高まるのがいつなのかというと、それはそこから先数年はほとんど影響がないどころか、10年先、20年先にもほとんど影響がないだろう。
しかし、30年、40年と時間を経るに連れてその死亡リスクは高まっていく、というのが現在の通説である。
それは逆に言えば非喫煙者が、喫煙者と比較して死亡リスクが低下するのにも何十年という時間が経過した場合に始めて発現するものである。
具体的に社会全体の喫煙率の変化がどのように死亡率に影響するのかというのは難しい問題である。
しかし、時間差が有るということはよくよく考えなければならない。
例えば、20歳代成人男性について言えば喫煙率は1980年以前は80%代であった。
その後、1980年代の喫煙率は70%代だったが1988年を最後に70%を割り込むと、2001年に60%を割り込み、2006年には50%を割り込むという具合に急速に低下してきている。
このように喫煙率は年々低下しているが、その低下が始まったのは1980年前後であり、その頃に20歳代だった人は、まだ60歳前後で死亡者数全体に与える影響は大きくない年代であるし、顕著に喫煙率が下がってきた年代というのは、せいぜい今の40代以下であるので、それらの世代が喫煙による死亡者数の影響を見るにあたっては、年代の中での死者数はともかくとして、全世代での死者数を考えた場合、そこに与える影響は小さいだろう。
具体的に、これらの喫煙率の変化が死亡率にどの程度影響を与えるか、というデータはちょっと見つけることが出来なかったが、高齢化という要因を除いた場合のガンによる死者数の推移というデータを見つけることが出来たのでリンクしておく。
これによればがん患者自体は増加しているものの、それは高齢化が主たる原因であり加齢要因を除いた場合には近年は低下傾向にあるということを示している。
もちろん、これだけで喫煙とガンとの関係性を立証できるはずもなく、実際には様々な研究が行われたことにより現在の通説は成り立っているのだが、それを否定しようとするには元記事は根拠が不足していると言わざるを得ないだろう。
最近はやりの水素水といい勝負かとも思うが
第五の権力、、、って4つ目までは何?
インターネットの発達が世の中を変えた、というのはこのブログを見ている人にはよく分かる話だろう。
まあ、1990年以降に生まれたような人は物心ついたころからインターネットがあるのが普通なのでイメージできないかもしれないけれども、友達との約束をするにも学校で約束するか、少し緊張しながら固定電話に電話するかしていた時代に比べると、LINEかSNSかで連絡を取り合っている環境はまるで違う。
情報の検索も本を読むか、知っていそうな人に聞いていたのと比べれば、スマホでいつでもどこでも検索できるというのは全く違う。
もちろん、仕事の上でも情報のやり取りはネットを通じて行われることは日常の出来事であるし、様々な申し込むや販売などのビジネス上のやり取りもネット上で完結することは少なくはない。
そのような様々な変化は、もちろん日常生活だけではない。
政治や権力と言った面でも大きな変化がある。
今や日本国内でも世論の動向を探るのにインターネットが使われているし、少し前の「保育園落ちた、日本死ね!」の投稿からはじまった一連の政治的な動きは記憶に新しいところだろう。
そんな様々な動きを技術的な側面も含めて解説しているのが本書だ。
これが書かれた時期は、アラブの春と言われた動乱がチュニジアから、エジプト、リビアと政権を打倒した一方でシリアは泥沼の内戦に陥り、ISの台頭が始まった時期である。
また、中国政府との対立からGoogleが中国での事業を撤退する一方で微博(ウェイボ)など中国国内では独自のサービスが普及しているものの中国政府による検閲とそれに対抗するネットユーザーとの戦いが表立って繰り広げられており、ウィキリークスによるアメリカの機密情報の暴露があり、アノニマスによるサイバー攻撃が世界各地で始まってから間がない時期である。
これらはインターネットが普及したことにより実現した出来事であり、しかもそれがさほど違わない時期に政治的な世界で次々に起きたことは、もはや生活を変えるだけではなく世界に変革を与えるものになっていることを実感として感じられるような出来事であった。
もちろん、それはネットの力だけで実現されるものではなく、社会的な様々な背景があってこそ成り立つものであるが、それを単にネットの力で実現したということではなく、現実世界の問題と絡めながら、出来事の背景と起こりうる未来について書かれたのがこの本である。
正直、あまり書評などを頼りにすることもなくGoogleのCEOであったエリック・シュミットの初の著作ということだけで購入して、読む前には技術的指向が強く、ちょっとした予言めいた内容の本なのかな、と思っていたのだけれども、中身としては実際の様々な出来事にもとづいて、きちんと事実を基にした話が展開されていて、現実の社会の変化を読み解くという意味で意義ある内容になっていた。
例えば、2011年のビン・ラディン殺害では、ビン・ラディンの自宅をアメリカがいかにして突き止めたのかということは、彼がインターネットの監視を警戒して、自宅にインターネット回線を引いていないことからだったであるというのは興味深く読めたし、アラブの春と言われる一連の革命の中でエジプト政府が革命の引き金を引いてしまったのは、インターネットによるデモの拡散を防ぐためにネットの利用が出来ないように制限をかけたことにより民衆の怒りを買ってしまったことであるとか、そのような事実をベースに、国際政治やテロリストなどの動向が語られているのは非常に説得力のある話であった。
話は最終的には2025年に世界人口の大半である80億人がネットに繋がるようになった未来を語っている。
この中ですでにある程度、時間的にも規模的にもネットが普及して利用が進んできている先進国に比べると、これから多くの人がネットに繋がることになる新興国においてはその影響は大きく、動きもダイナミックになっていくだろうと予想されていた。
詳しく、様々な場面でどのようになっていくのかについては実際に本を読んで理解をしてもらいたいところなのだが、それらもなるほどと思える反面で、例えば日本国内でもガラケーを使い続ける人が一定数いることを考えると、社会の変化はそこまで急激に進行していくのかについては、若干の疑問が残ったのは事実である。
また、世界中の情報を整理するというGoogleの理念が念頭にあった上で、この本を読んでいくとちょっとその理念とは齟齬があるのではないかと思える部分もあった。
もちろん、Googleが次々にネット上に情報を掲げて世間との摩擦を引き起こしてきたのは著作権や肖像権などの関する問題が中心であり、本の中で取り上げられているのは政治問題やテロリズムなどについても紙面の多くが割かれているため、この辺りについては考え方が違うのかもしれないけれども、その辺りの自分が感じた違和感がエリック・シュミット個人の考えなのか、Googleの目指すところなのか、世界に最も影響を与える企業の目指す先を見通すつもりで読むと、少し困惑するかもしれない。
いずれにしても、インターネットの影響力は今後、増していくことはあっても減じていくことというのは考えにくい。
それらが社会的、政治的にどのような影響を与えていくのか見通していく上では読んでみても良いのかなと思う。
- 作者: エリック・シュミット,ジャレッド・コーエン,櫻井祐子
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2014/02/21
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