三菱の燃費問題

三菱自動車の燃費問題が、補償金の発表と国土交通省による燃費データの好評があり、再び話題になっている。

その発表のタイミングが補償金が先にあって、それから燃費データという順番は非常に筋の悪さを感じる。
何しろ補償金が、これですと言って出した金額が妥当であるのかは、燃費データを見てから判断できるはずなのに先に金額を出してしまって、それから後に検証データが出てくるわけなのだから、順番として逆である。
というわけで、実際に国土交通省が発表したデータを見てみよう。
 
ニュースサイトでもないので、全ての数字を羅列することはやめて、ekワゴンとekスペースのそれぞれ1グレードに登場してもらう。
ekワゴンについて初期グレードで最も燃費の良いG
ekスペースについても初期グレードで最も燃費の良いE/G/カスタムG
このグレードで見るとekワゴンは1リットル当たり29.2kmと発表されていたのが、今回の国土交通省の発表では26.8km。
同じくekスペースでは26.0kmが22.0kmとなっている。
その他のグレードで見ても似た傾向にあるがekワゴンでは5-10%、ekスペースでは15%前後、新しく発表された数値では燃費が悪化している。
 
それでは、実際にこの燃費の違いがユーザーにどのくらいの影響を与えるのか考えてみたい。
と言ってもユーザーに対する負担の大半はガソリン代である。
航続距離が短くなるということや騙されていたということへの精神的なダメージというのはあるかもしれないが、これはそれほど大きな影響ではないだろう。
また、中古の価格が下がるということもあるかもしれないが、これについても商品の価値という点では燃費の部分に行き着く。
もちろん、ブランドが毀損したということもあるのだが、これは定量的に評価しにくいため、ひとまず保留とする(実際には中古車の相場を見ればわかると思われるが、これはオークションのデータ等がある中古車販売業者でないと、なかなか分からないだろう)
というわけで単純に購入した車両を10万km乗るとした場合のガソリン代の負担額の違いを計算してみたい。
 
まず、ekワゴンの場合だ。
当初の三菱の公表値であれば10万km走行した場合のガソリン消費量は3435リットル(小数点以下四捨五入、以下も同様)であるはずが、新しく発表された数字で計算すると3731リットルとなり、その差は296リットルとなる。
ガソリン価格については時期により違うために一概には言えないが、資源エネルギー庁が発表している直近の全国平均のレギュラーガソリン価格である123.6円を使うと3万6586円ということになる。
 
同じ計算をekスペースでしてみると
公表値でのガソリン消費量は3846リットル。
国土交通省発表の燃費数値では4545リットル。
その差は699リットル。
これにガソリン価格を乗じると8万6396円となる。
 
このように見ると、いずれも三菱自動車が発表した10万円という補償額の範囲内に収まっているので一見、問題ないように見える。
しかも、資源エネルギー庁が発表しているガソリン価格はフルサービスも含むのでガソリン価格を意識してセルフを利用していれば、もう少し安く済む可能性はあるだろう。
ただ、ここで注意しなくてはいけないのは走行距離を10万キロと過程していることだ。
もちろん、軽自動車は走行距離が短い傾向にあるため10万キロ以内で廃車とされる車も少なくはないだろうが、実際にはもっと走行することも可能である。
タクシーのように30万キロや50万キロも走るということはほとんどないだろうが15万キロくらい走行する人もいるだろう。
そうするとekスペースのユーザーの損失額は上記計算の1.5倍となるため12万9594円ということになる。
 
また、一律3万円とされた軽自動車4車種以外の車両についてはどうだろう?
例えばアウトランダーの旧モデル。
発売当初のモデルは燃費は1リットル当たり11.6kmと公表されていた。
仮に、これが2%程度公表値とくらべて実際は悪かったということであれば、上記の計算をすれば10万キロの時点では確かに損失は3万円以内に収まる。
しかし、それでも14万キロ以上走行した場合には損失は3万円を超えるし、燃費の不正が3%以上であれば10万キロであっても損失額は3万円を超えてしまう計算になる。
もし、仮に燃費不正が10%も違っていたとすると10万キロ走行時の損失額は11万円を超える計算になる。
もちろん、新車をすでに製造していないため実際にどの程度の損失が発生しているのかは検証しようがないが、軽自動車に比べて燃費が悪く、一方で走行距離が長い車両ではより大きく燃費不正の影響が出ることを考えると、3万円という金額の根拠については理解することが難しい。
もちろん、不正と言っても軽自動車ほどひどいものではなく、あってもその差は1%程度だったというのであれば、測定誤差の範囲内ということになるのだろうが、そうであるかどうかの根拠は示されていないので分からない。

 

この問題が、今後どのような展開になっていくかは分からない。
三菱自動車が発表した金額でユーザーの大半が納得して粛々と支払いが進んでいくという可能性もあるし、納得行かないという声が大きくなり、見直しを迫られるという可能性もあるのではないかと思う。
うちも三菱車を保有しているので、この問題の行方は気になるところである。
三菱自動車の闇 スリーダイヤ腐蝕の源流

三菱自動車の闇 スリーダイヤ腐蝕の源流

 

 

 

統計の使い方

SmartNewsでニュースを見ていたら、こんな記事を見つけた。

ironna.jp

まあ、記事についてはネットニュースでは釣りが多いので、これもそういう記事だろうと思ってみたら、中身も「煙草は健康に悪くない」と主張するかのような記事だった。

が、その論理は随分と乱暴で久しぶりにこんな記事を目にしたなと思う。

記事の中で煙草が体に悪くないという主たる主張の根拠となっているのは1970年台以降に喫煙率が低下しているのに、肺がんで死亡する人が増えているということと、肺がんの種別の変化と言ったところである。

詳しい主張は記事を見てもらえると分かるが、喫煙率の低下と肺がんによる死亡者数は見事な逆相関になっているように見えるため、一見するとなるほどと思いたくなるかもしれない。

しかし、肺がんによる死者数が増加するのにはいくつかの理由がある。

まず、第一には近年は高齢化が進んでおり死者数そのものが増加しているので、肺がんによる死者も必然的に増えている。

第二に、医療衛生環境の向上により他の死因による死者数が減少していることがある。

戦前、戦中には結核と肺炎が死亡の主たる要因であったが、戦後は悪性新生物と心疾患、脳血管疾患の3つが死亡の主たる要因になっていった。

しかし、近年では心疾患と脳血管疾患については生活習慣の改善などにより死亡率が低下しているものの悪性新生物、いわゆるガンについては有効な対策が見つからないため死亡率が低下せず、相対的に死者数が増加している。

第三に、日本人の寿命が伸びていることがある。

寿命が伸びるとその分だけガン化した細胞が体内に蓄積するため、それが増殖してガンとして病気が発症する可能性が高くなるため、相対的に死亡原因の上位に来ることになる。

これらガンの死者数が増加する原因が様々にあるにも関わらず、煙草の喫煙率の低下とガンの死亡者数の増加だけを単純に比較するというのは問題がある。

また、喫煙による死者数とガンの発病との関係については時間差があることについても記事の中では全く触れられていない。

例えば20歳の人が喫煙習慣があるとして、その人が死亡するリスクが高まるのがいつなのかというと、それはそこから先数年はほとんど影響がないどころか、10年先、20年先にもほとんど影響がないだろう。

しかし、30年、40年と時間を経るに連れてその死亡リスクは高まっていく、というのが現在の通説である。

それは逆に言えば非喫煙者が、喫煙者と比較して死亡リスクが低下するのにも何十年という時間が経過した場合に始めて発現するものである。

具体的に社会全体の喫煙率の変化がどのように死亡率に影響するのかというのは難しい問題である。

しかし、時間差が有るということはよくよく考えなければならない。

例えば、20歳代成人男性について言えば喫煙率は1980年以前は80%代であった。

その後、1980年代の喫煙率は70%代だったが1988年を最後に70%を割り込むと、2001年に60%を割り込み、2006年には50%を割り込むという具合に急速に低下してきている。

このように喫煙率は年々低下しているが、その低下が始まったのは1980年前後であり、その頃に20歳代だった人は、まだ60歳前後で死亡者数全体に与える影響は大きくない年代であるし、顕著に喫煙率が下がってきた年代というのは、せいぜい今の40代以下であるので、それらの世代が喫煙による死亡者数の影響を見るにあたっては、年代の中での死者数はともかくとして、全世代での死者数を考えた場合、そこに与える影響は小さいだろう。

具体的に、これらの喫煙率の変化が死亡率にどの程度影響を与えるか、というデータはちょっと見つけることが出来なかったが、高齢化という要因を除いた場合のガンによる死者数の推移というデータを見つけることが出来たのでリンクしておく。

ganjoho.jp

これによればがん患者自体は増加しているものの、それは高齢化が主たる原因であり加齢要因を除いた場合には近年は低下傾向にあるということを示している。

もちろん、これだけで喫煙とガンとの関係性を立証できるはずもなく、実際には様々な研究が行われたことにより現在の通説は成り立っているのだが、それを否定しようとするには元記事は根拠が不足していると言わざるを得ないだろう。

最近はやりの水素水といい勝負かとも思うが

第五の権力、、、って4つ目までは何?

インターネットの発達が世の中を変えた、というのはこのブログを見ている人にはよく分かる話だろう。

まあ、1990年以降に生まれたような人は物心ついたころからインターネットがあるのが普通なのでイメージできないかもしれないけれども、友達との約束をするにも学校で約束するか、少し緊張しながら固定電話に電話するかしていた時代に比べると、LINEかSNSかで連絡を取り合っている環境はまるで違う。

情報の検索も本を読むか、知っていそうな人に聞いていたのと比べれば、スマホでいつでもどこでも検索できるというのは全く違う。

もちろん、仕事の上でも情報のやり取りはネットを通じて行われることは日常の出来事であるし、様々な申し込むや販売などのビジネス上のやり取りもネット上で完結することは少なくはない。

そのような様々な変化は、もちろん日常生活だけではない。

政治や権力と言った面でも大きな変化がある。

今や日本国内でも世論の動向を探るのにインターネットが使われているし、少し前の「保育園落ちた、日本死ね!」の投稿からはじまった一連の政治的な動きは記憶に新しいところだろう。

そんな様々な動きを技術的な側面も含めて解説しているのが本書だ。

これが書かれた時期は、アラブの春と言われた動乱がチュニジアから、エジプト、リビアと政権を打倒した一方でシリアは泥沼の内戦に陥り、ISの台頭が始まった時期である。

また、中国政府との対立からGoogleが中国での事業を撤退する一方で微博(ウェイボ)など中国国内では独自のサービスが普及しているものの中国政府による検閲とそれに対抗するネットユーザーとの戦いが表立って繰り広げられており、ウィキリークスによるアメリカの機密情報の暴露があり、アノニマスによるサイバー攻撃が世界各地で始まってから間がない時期である。

これらはインターネットが普及したことにより実現した出来事であり、しかもそれがさほど違わない時期に政治的な世界で次々に起きたことは、もはや生活を変えるだけではなく世界に変革を与えるものになっていることを実感として感じられるような出来事であった。

もちろん、それはネットの力だけで実現されるものではなく、社会的な様々な背景があってこそ成り立つものであるが、それを単にネットの力で実現したということではなく、現実世界の問題と絡めながら、出来事の背景と起こりうる未来について書かれたのがこの本である。

正直、あまり書評などを頼りにすることもなくGoogleのCEOであったエリック・シュミットの初の著作ということだけで購入して、読む前には技術的指向が強く、ちょっとした予言めいた内容の本なのかな、と思っていたのだけれども、中身としては実際の様々な出来事にもとづいて、きちんと事実を基にした話が展開されていて、現実の社会の変化を読み解くという意味で意義ある内容になっていた。

例えば、2011年のビン・ラディン殺害では、ビン・ラディンの自宅をアメリカがいかにして突き止めたのかということは、彼がインターネットの監視を警戒して、自宅にインターネット回線を引いていないことからだったであるというのは興味深く読めたし、アラブの春と言われる一連の革命の中でエジプト政府が革命の引き金を引いてしまったのは、インターネットによるデモの拡散を防ぐためにネットの利用が出来ないように制限をかけたことにより民衆の怒りを買ってしまったことであるとか、そのような事実をベースに、国際政治やテロリストなどの動向が語られているのは非常に説得力のある話であった。

話は最終的には2025年に世界人口の大半である80億人がネットに繋がるようになった未来を語っている。

この中ですでにある程度、時間的にも規模的にもネットが普及して利用が進んできている先進国に比べると、これから多くの人がネットに繋がることになる新興国においてはその影響は大きく、動きもダイナミックになっていくだろうと予想されていた。

詳しく、様々な場面でどのようになっていくのかについては実際に本を読んで理解をしてもらいたいところなのだが、それらもなるほどと思える反面で、例えば日本国内でもガラケーを使い続ける人が一定数いることを考えると、社会の変化はそこまで急激に進行していくのかについては、若干の疑問が残ったのは事実である。

また、世界中の情報を整理するというGoogleの理念が念頭にあった上で、この本を読んでいくとちょっとその理念とは齟齬があるのではないかと思える部分もあった。

もちろん、Googleが次々にネット上に情報を掲げて世間との摩擦を引き起こしてきたのは著作権や肖像権などの関する問題が中心であり、本の中で取り上げられているのは政治問題やテロリズムなどについても紙面の多くが割かれているため、この辺りについては考え方が違うのかもしれないけれども、その辺りの自分が感じた違和感がエリック・シュミット個人の考えなのか、Googleの目指すところなのか、世界に最も影響を与える企業の目指す先を見通すつもりで読むと、少し困惑するかもしれない。

いずれにしても、インターネットの影響力は今後、増していくことはあっても減じていくことというのは考えにくい。

それらが社会的、政治的にどのような影響を与えていくのか見通していく上では読んでみても良いのかなと思う。

 

第五の権力---Googleには見えている未来

第五の権力---Googleには見えている未来

 

 

写真の未来はこの中に?

ブログのタイトルを微妙に変更した。

と言っても色々と変更しようと思ったものの奇抜なものは浮かぶもののしっくりと腑に落ちるものはなく、結局つまらない小さな変更であるけれども。

ブログのタイトルの頭にある「ys」はヤクルトスワローズのことで、小さなことから色んな所につけてきたので、自分の中では一番しっくり来るキーワードだ。

と言っても長く応援しているというだけで年間100試合くらいはテレビ観戦していたころと比べれば熱心さは、、、最近はどうだろうということはあるけれども、でもきっと自分の人生の中で、おそらく仕事と睡眠以外では一番時間を費やしているだろうことを考えるともはや切り離せない存在になっていると思う。

と、それはともかくGoogleフォトが最近、リニューアルしたのだけれども、その内容が面白い。

Googleフォトのサービスを知らない人のために説明するとGoogleが提供する写真の保存サービスで1600万画素の画質の写真でよければネット上に無制限に保存できるというもの。

保存された写真は日付毎に保存されるだけではなく、写真に写っている人物や内容毎に自動的に分類されたり、一定のまとまった写真からアルバムを作ったり、ムービーを自動的に作ったりということが出来るサービスになっている。

そのGoogleフォトがリニューアルして検索機能などが強化される使用となった。

これによりアップロードした写真が様々に検索できることになったのだけれども、その検索機能がなかなか凄い内容になっている。

普通、写真を保存して検索するとすれば日付やファイル番号か、最近では顔認識で人物などを検索できるソフトも出てきているが、Googleフォトの分類はこちらが思っているよりも検索の幅が広いのに驚いた。

今まででも「森」「花」「犬」「ネコ」「高層建築」「ワイン」などと言った分類は自動的にされていたのだけれども、更新されたGoogleフォトではもっと抽象的な表現での検索が可能になっている。

例えば、次の画像にあるように「光」だ。

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これは画像のコントラストを見分けているのだと思うけれども、しかしながら見事に人がイメージをする「光」を表す写真だけを選んでいる。

この他にも試してみたが「男」「女」という性別などの人物的特徴を見分けることもできるし、「機械」というキーワードを入れたところ

 

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こんなモーターショーの自動車などを選び出しており、その検出精度に舌を巻くばかりだ。

そして、このような写真分類の機能は、人と写真の関係性を大いに変える可能性を秘めているのではないかと思う。

プライベートの写真はたくさん撮影しても死蔵されているものが多かったのが、分類機能やアルバム・ムービーの作成機能により陽の目を浴びることも増えてくるであろうし、そういう機能があると分かれば日常の中での写真撮影の考え方も違ってくるものになると思う。

もちろん、ビジネスの分野でも利用価値は大いにあるだろう。

この分類技術の背景には人工知能があって、それが云々ということも話題としては面白いのだが、それはひとまず横において純粋にネット上における写真の保存・分類サービスということだけでも十分にインパクトは感じる。

とりあえず、手元にある何千枚・何万枚という写真をアップロードしておくと、それを勝手に分類してくれて、探したい写真を簡単に探せるようになるというのは、思い出を保存・検索するという効率を格段に上げてくれる。

そして、今は単体のキーワードを中心としている検索であるが将来的に自然言語に対応するともっと面白いことになってくると思う。

例えば「夕暮れの海沿い」とか「晴れた日の富士山」とか「誕生日の記念撮影」とか、そんな風にして分類・検索ができるようになると単純に便利というだけではなく、その便利さを前提として写真を撮影し、アップロードして、共有することになるだろうから、カメラや写真というものに対する付き合い方が、全く変わってしまうかもしれないと思う。

と、そんなことを思いながら、動物園に言った時に撮影したはずの「パンダ」の写真が検索しても出てこないところを見ると、まだまだかな、などと思ったりもするのですが。

最高のリーダーは何もしない?

藤沢久美氏著「最高のリーダーは何もしない」を読んだ。

まあ、リーダー論、組織論というものは昔から巷に溢れているので、その類の1つであはある。

過去、組織論として読まれてきた作品としては、有名なところではドラッカーの「マネジメント」やカーネーギーの「人を動かす」は古典的名著と言っても良いだろう。

日本の著作であれば松下幸之助の「リーダーになる人にしっておいて欲しいこと」や「失敗の本質」などもあるだろう。

最近ではスポーツの世界からヒントを得ようと言う流れがあるようでラグビーエディー・ジョーンズや野球では工藤公康、などの関連が今は旬だろうか。

これらのリーダー論については違う見方もあれば共通する部分ももちろんあって、と言っても自分も全てを読んでいるわけではないので偉そうなことは言えるわけではないけれども、そのずれている部分というのは時代によりちょっとずつ変化しているように思われる。

また、メジャーな本というのは実際に組織のトップに経った人が自分の経験から語っているものが多いのであるが、この辺りについては名プレイヤーが名監督に非ず、などと言われるのと同じで、リーダー論のプロの方が有用な場合もあるのかな、なんてことは思ったりする。

もっとも、組織を動かしていく上でリーダーが鍵になるというところは今も昔も違いはないと思うし、本を読む上では著作者が誰であるかよりも、その中身が大事であることは自明の理であろう。

しかし、以前のリーダー論と最近のリーダー論、あるいは組織トップの人が書くものと、外部から見た人が書くものとで多く見られる違いもある。

その中で特に最近、際立っているのがリーダーと部下との関係性であると思う。

従前のリーダー論であれば、その論は「ぶれないこと」「公平に評価をすること」「能力を見極めること」「機会を与えること」などが中心であったかと思う。

これらのことが以前と違いがあるわけではないけれども、今のリーダー論はこれらに加えて「部下との信頼関係を構築すること」「部下の将来への不安を取り除くこと」「コミュニケーションを密接にすること」「失敗を許容して、次へのチャレンジへと結びつけること」などが求められている傾向にある。

これは社会がどんどんと複雑化していて業務マネジメントが難しくなっていることや時代の変化が早くなってきているために上司たる人物が以前持っていたスキルが陳腐かして通用しなくなる傾向があるため、というところが大きいだろう。

つまり部下が何をどのようにすれば仕事が上手く回っていくのかについて上司が全てを把握できていれば、仕事をどのようにすすめるかについては上司が範を示して、あるいは説明していけば進んで行っただろう。

しかし、今はそうはいかない領域というのがどんどんどと増えてきている。

あらゆるビジネスでSNSを始めとしたインターネットで情報発信は必要不可欠になってきているし、ビッグデータ解析というのもどんどんと使われるようになってきている。

結果として、それらの情報に接する機会の多い立場の人物やそれらの情報編集能力・解析能力に長けた人物が、正解を早く導き出せることになる。

結果、上司として求められる能力も、ネットワークがある以前とはすっかり様変わりしてしまっているわけである。

と、前振りが長くなってしまったが、そういう時代の変化の中で求められるリーダー像を示すのが本書である。

面白かったのは以前であればリーダーというのは、時には嫌われ役になる、という面が会ったのだが本書の中では「嫌われるリーダー」ではなく「好かれなくてもいいが、嫌われないリーダー」というリーダー像を提示している。

これは現代のリーダーが「ビジョン」を共有することが大事であるということが背景にあるだろう。

ぐいぐい引っ張っていくタイプのリーダーであれば嫌われてでも1つの方向に向いていくことができればいいのだが、社会が多極化している現代においては一方向に向かうだけでは上手くいかない場合もある。

様々なところにセンサーを張り巡らして、チャンスがあればどんどんとチャレンジしていかなければならないこともあるだろう。

その場合、当初目指していた方向とは違う方向に向かうこともあるが、その時にはビジョンを示しておき、その範囲であれば進んで行って良いと示して置かなければスピードを持った意思決定ができないであろう。

本書は、そういう論理的なところまで踏み込んで行くという本ではないけれども、様々な実例を引いて説明をしているので、なるほど、と膝を打つことも多い。

また、この本のようなリーダー論であるが、必ずしも組織のトップの人が必要としているわけではないだろう。

ある組織で何年か経験を積んでいくれば、小さな部門のリーダーになることも少なくなはないはずだ。

そういう小さなレベルであってもリーダーとしての振る舞いは求められるはずである。

そういう時に現代的リーダー論の入り口として一助になるだろう。

もっとも、論理的であったり体系的であるわけではないので、気楽に読めるリーダー論の読み物と言ったものであるので、ちょっとした通勤時間の合間やふとした休みに軽く読むというのが向いているだろう。

 

 

ポリアの思考術

今年は本を50冊読もうという目標を持ってスタートした。

そんな今年の一冊目に読んだ本が丸善出版の「数学×思考=さっくりと いかにして問題をとくか」だ。

これを最初に一冊にしたのには特に意味はなくて、今までに積ん読になっていた本の中では比較的読みやすかったので、たまたま読んだというだけである。

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と、そんな読んだ経緯はともかくとして、さて本の内容だ。

この本は数学者のポリアが記した「いかにして問題を解くか」という著作に記されたポリアの教えエッセンスを抽出して一般向けに記されたものだ。

ポリアの教えは25箇条からなっており、物事を論理的かつ効果的に解決していくための物事の見方をしたものであるが、残念ながらその文章を読んだだけでは分かりにくいものもある。

例えば問題解決のためのステップ1の3は「適当な記号を導入して図を書いてみよう」となっている。

数学の教養のある人なら、ウンウンと頷くかもしれないが、その人達を除けば何がなにやらということになりかねない。

その他の教えもそんな調子で、少し分かりにくいポリアの教えを噛み砕いて教えてくれるのがこの本である。

例えばポリアの教えのステップ1の4「条件の各部分を分離してみよう」では「ある都市にピアノの調律師は何人いるか?」という問題を題材にして解説している。

はて、そんな問題を解いて何か意味があるのだろうか?、ともしかしたら思う人がいるかもしれないけれども、ビジネスをしていく上で、この商売において潜在顧客がどのくらいいるのだろうかとか、実質的な競合相手がどのくらいいるのであろうかなどという問題に対して、はっきりした数字がない中で挑戦していかなくてはならない場面は決して少なくないはずだ。

しかも、そんなはっきりしない状況でありながらも、例えば推定する潜在顧客の数が10万人である場合と100万人である場合には販売予測やプロモーションの展開など全く違う予想になってしまう。

従って、一見数学的に見える予測の問題であっても、実はビジネスでも教育でも政治的な活動でも、重要なものだということが分かると思う。

とは言えデータのはっきりしない状況では完璧に見積もるということは困難である。

しかし、完璧な見積もりはできないにしても、概ね誤差の範囲を桁が違わない程度で推測することができれば十分に有効であるし、そのためにはどのようにすれば良いのかというのがこの問題に要点で、これは「フェルミ推定」と言われている。

この問題を解くには専門的な数学的な知識は必要ないし、推定するための計算も難しくはない。

ただし、考え方を理解している必要がある。

さて、問題のピアノの調律師の数というのは、その都市における人口とその住民がピアノを持っている割合、そしてそのピアノが一年で何回調律が必要とされるのかということ。

これが分かれば一年間のピアノ調律の需要があるのかが判明する。

そして、その需要に対して調律師が何人いれば需要が足りるのか、ということを考えると調律師の人数が推定できる。

これらの予測に用いるデータは、都市の人口は統計データで明らかであるし、ピアノの普及率はある程度の推計でも大雑把には間違えないだろう。

細かく知りたければピアノの販売データと廃棄データからおおよその予想が付く。

ピアノの調律が年に何回必要で、1人の調律師が年に何件ほどの調律がこなせるかは経験がないと分からないが、これはピアノの調律師か、ピアノを所有している人にインダビューすれば分かるだろう。

こうして集めたデータがあれば、特に数学の教養がなくても、ある年におけるピアノの調律師の人数を求めることが出来るわけだ。

本の中では、もうちょっとざっくりとした人数を計算によって求めているが、いずれにしても概数を推測するということでは、役に立つ考え方だろう。

こうやってポリアの教えの幾つかについて、ざっくりと考えることによってでも、概ねの数字の大きさや考える方向性が分かるんだよ、というのが本書の要点だ。

そんな風にして数学などに馴染みのない人であっても、色んな値の推計などができるようになるということが書いてある。

現代はコンピューターが発達して様々なデータを集積することがどんどん容易になってきていて、その集めたデータから何が見えてくるのかを考えるのが人間の仕事になってきている。

そういう時代には情報処理のスピードではなくて、方向性を見つけることが重要であり、それを身につけるためにはこういう本でデータをどのように見れば良いのか知ることは一助になるのではないかと思う。

 

数学×思考=ざっくりと  いかにして問題をとくか

数学×思考=ざっくりと いかにして問題をとくか

 

 

思えば多感な時期でした

今週のお題「人生に影響を与えた1冊」ということで、思い返せば本から受けた影響というのは、それなりにあっただろうと思う。

少年期に影響を受けたのは、もちろん小説なども読んでいて赤川次郎司馬遼太郎やらを読む一方でライトノベルなんぞも読んでいたが、印象に強く残っているということで言えば科学系の書籍だろうか。

小学生の頃で言えば「科学的とはどういうことか?」という本で、いわゆる科学的思考を養う上で影響を受けた一冊であったように記憶しているが、何しろ小さい頃に読んだ本であるので、どのくらい影響を受けたのかということについては記憶が定かではない。

物心がしっかりとついてから読んだ本ということでは「ファイマン物理学」「ホーキング博士宇宙を語る」などが印象に残っている。

その後、科学を学ぼうという意識を持つうえで、それを強化することになった本である。

しかしながら、科学について強い興味を持つに至った一番大きな影響を与えたのはそれらの書籍ではなくNHKで放送された「アインシュタインロマン」であったから、残念ながら、これらを人生に影響を与えた一冊というには、ちょっと違うのかなと思う。

では、科学を学ぼうという意識とは別に人生全般について指針と成るような本がなかったかと考えてみると、一番影響を受けているのではないかと思うのは司馬遼太郎の「21世紀に生きる君たちへ」だ。

これは小学生に向けて書かれた司馬遼太郎が伝えたいメッセージのこもったエッセイであり、元は小学生の教科書へ掲載すべく書かれたものであった。

第二次世界大戦を経験して、日本という国の成り立ちについて深く考え、歴史小説を書くまでになった司馬遼太郎が、過去の歴史ではなく未来に向けて書いた若者への応援歌のような文章である。

内容としては小学生の、しかも中学年程度を想定して書かれていると思われるので、決して難しい内容ではない。

しかしながら、何度も推敲して書かれた文章は、一言一言に無駄がなく、我々が人生を生きていく上で何をこころがけていくべきであるのかということを見事に書ききってあり、それは決して子どもたちだけではなく、実際に21世紀という時代を生きている我々に対して訴えかけてくるものがある。

決して大げさな文章ではなく、どちらかと言えば淡々とした内容ではあるのだが、それが逆に読むものを深い思いへと駆り立てるものだ。

決して長い文章ではないし、おそらくこれを掲載する多くの書籍が、もう少し上の年齢層に向かって書かれた「洪庵の松明」という一遍も収録しているが、両方合わせても10分ほどで読めてしまうほどの内容である。

しかしながら、そこに込められたメッセージは司馬遼太郎がそれまで生きてきた何十年の思いが感じられる。

この本は自分の人生を歩んでいく上で、具体的にこういうふうにしようとか、そういう決断を導くような本ではないが、今でも時々読み返しては、自分の生き方が正しいのかと羅針盤になるような一冊だ。

そして、これからも人生という航海を進む上で、進むべき方角を教えてくれるものであり続けるろ思っている。