第五の権力、、、って4つ目までは何?
インターネットの発達が世の中を変えた、というのはこのブログを見ている人にはよく分かる話だろう。
まあ、1990年以降に生まれたような人は物心ついたころからインターネットがあるのが普通なのでイメージできないかもしれないけれども、友達との約束をするにも学校で約束するか、少し緊張しながら固定電話に電話するかしていた時代に比べると、LINEかSNSかで連絡を取り合っている環境はまるで違う。
情報の検索も本を読むか、知っていそうな人に聞いていたのと比べれば、スマホでいつでもどこでも検索できるというのは全く違う。
もちろん、仕事の上でも情報のやり取りはネットを通じて行われることは日常の出来事であるし、様々な申し込むや販売などのビジネス上のやり取りもネット上で完結することは少なくはない。
そのような様々な変化は、もちろん日常生活だけではない。
政治や権力と言った面でも大きな変化がある。
今や日本国内でも世論の動向を探るのにインターネットが使われているし、少し前の「保育園落ちた、日本死ね!」の投稿からはじまった一連の政治的な動きは記憶に新しいところだろう。
そんな様々な動きを技術的な側面も含めて解説しているのが本書だ。
これが書かれた時期は、アラブの春と言われた動乱がチュニジアから、エジプト、リビアと政権を打倒した一方でシリアは泥沼の内戦に陥り、ISの台頭が始まった時期である。
また、中国政府との対立からGoogleが中国での事業を撤退する一方で微博(ウェイボ)など中国国内では独自のサービスが普及しているものの中国政府による検閲とそれに対抗するネットユーザーとの戦いが表立って繰り広げられており、ウィキリークスによるアメリカの機密情報の暴露があり、アノニマスによるサイバー攻撃が世界各地で始まってから間がない時期である。
これらはインターネットが普及したことにより実現した出来事であり、しかもそれがさほど違わない時期に政治的な世界で次々に起きたことは、もはや生活を変えるだけではなく世界に変革を与えるものになっていることを実感として感じられるような出来事であった。
もちろん、それはネットの力だけで実現されるものではなく、社会的な様々な背景があってこそ成り立つものであるが、それを単にネットの力で実現したということではなく、現実世界の問題と絡めながら、出来事の背景と起こりうる未来について書かれたのがこの本である。
正直、あまり書評などを頼りにすることもなくGoogleのCEOであったエリック・シュミットの初の著作ということだけで購入して、読む前には技術的指向が強く、ちょっとした予言めいた内容の本なのかな、と思っていたのだけれども、中身としては実際の様々な出来事にもとづいて、きちんと事実を基にした話が展開されていて、現実の社会の変化を読み解くという意味で意義ある内容になっていた。
例えば、2011年のビン・ラディン殺害では、ビン・ラディンの自宅をアメリカがいかにして突き止めたのかということは、彼がインターネットの監視を警戒して、自宅にインターネット回線を引いていないことからだったであるというのは興味深く読めたし、アラブの春と言われる一連の革命の中でエジプト政府が革命の引き金を引いてしまったのは、インターネットによるデモの拡散を防ぐためにネットの利用が出来ないように制限をかけたことにより民衆の怒りを買ってしまったことであるとか、そのような事実をベースに、国際政治やテロリストなどの動向が語られているのは非常に説得力のある話であった。
話は最終的には2025年に世界人口の大半である80億人がネットに繋がるようになった未来を語っている。
この中ですでにある程度、時間的にも規模的にもネットが普及して利用が進んできている先進国に比べると、これから多くの人がネットに繋がることになる新興国においてはその影響は大きく、動きもダイナミックになっていくだろうと予想されていた。
詳しく、様々な場面でどのようになっていくのかについては実際に本を読んで理解をしてもらいたいところなのだが、それらもなるほどと思える反面で、例えば日本国内でもガラケーを使い続ける人が一定数いることを考えると、社会の変化はそこまで急激に進行していくのかについては、若干の疑問が残ったのは事実である。
また、世界中の情報を整理するというGoogleの理念が念頭にあった上で、この本を読んでいくとちょっとその理念とは齟齬があるのではないかと思える部分もあった。
もちろん、Googleが次々にネット上に情報を掲げて世間との摩擦を引き起こしてきたのは著作権や肖像権などの関する問題が中心であり、本の中で取り上げられているのは政治問題やテロリズムなどについても紙面の多くが割かれているため、この辺りについては考え方が違うのかもしれないけれども、その辺りの自分が感じた違和感がエリック・シュミット個人の考えなのか、Googleの目指すところなのか、世界に最も影響を与える企業の目指す先を見通すつもりで読むと、少し困惑するかもしれない。
いずれにしても、インターネットの影響力は今後、増していくことはあっても減じていくことというのは考えにくい。
それらが社会的、政治的にどのような影響を与えていくのか見通していく上では読んでみても良いのかなと思う。
- 作者: エリック・シュミット,ジャレッド・コーエン,櫻井祐子
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2014/02/21
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写真の未来はこの中に?
ブログのタイトルを微妙に変更した。
と言っても色々と変更しようと思ったものの奇抜なものは浮かぶもののしっくりと腑に落ちるものはなく、結局つまらない小さな変更であるけれども。
ブログのタイトルの頭にある「ys」はヤクルトスワローズのことで、小さなことから色んな所につけてきたので、自分の中では一番しっくり来るキーワードだ。
と言っても長く応援しているというだけで年間100試合くらいはテレビ観戦していたころと比べれば熱心さは、、、最近はどうだろうということはあるけれども、でもきっと自分の人生の中で、おそらく仕事と睡眠以外では一番時間を費やしているだろうことを考えるともはや切り離せない存在になっていると思う。
と、それはともかくGoogleフォトが最近、リニューアルしたのだけれども、その内容が面白い。
Googleフォトのサービスを知らない人のために説明するとGoogleが提供する写真の保存サービスで1600万画素の画質の写真でよければネット上に無制限に保存できるというもの。
保存された写真は日付毎に保存されるだけではなく、写真に写っている人物や内容毎に自動的に分類されたり、一定のまとまった写真からアルバムを作ったり、ムービーを自動的に作ったりということが出来るサービスになっている。
そのGoogleフォトがリニューアルして検索機能などが強化される使用となった。
これによりアップロードした写真が様々に検索できることになったのだけれども、その検索機能がなかなか凄い内容になっている。
普通、写真を保存して検索するとすれば日付やファイル番号か、最近では顔認識で人物などを検索できるソフトも出てきているが、Googleフォトの分類はこちらが思っているよりも検索の幅が広いのに驚いた。
今まででも「森」「花」「犬」「ネコ」「高層建築」「ワイン」などと言った分類は自動的にされていたのだけれども、更新されたGoogleフォトではもっと抽象的な表現での検索が可能になっている。
例えば、次の画像にあるように「光」だ。
これは画像のコントラストを見分けているのだと思うけれども、しかしながら見事に人がイメージをする「光」を表す写真だけを選んでいる。
この他にも試してみたが「男」「女」という性別などの人物的特徴を見分けることもできるし、「機械」というキーワードを入れたところ
こんなモーターショーの自動車などを選び出しており、その検出精度に舌を巻くばかりだ。
そして、このような写真分類の機能は、人と写真の関係性を大いに変える可能性を秘めているのではないかと思う。
プライベートの写真はたくさん撮影しても死蔵されているものが多かったのが、分類機能やアルバム・ムービーの作成機能により陽の目を浴びることも増えてくるであろうし、そういう機能があると分かれば日常の中での写真撮影の考え方も違ってくるものになると思う。
もちろん、ビジネスの分野でも利用価値は大いにあるだろう。
この分類技術の背景には人工知能があって、それが云々ということも話題としては面白いのだが、それはひとまず横において純粋にネット上における写真の保存・分類サービスということだけでも十分にインパクトは感じる。
とりあえず、手元にある何千枚・何万枚という写真をアップロードしておくと、それを勝手に分類してくれて、探したい写真を簡単に探せるようになるというのは、思い出を保存・検索するという効率を格段に上げてくれる。
そして、今は単体のキーワードを中心としている検索であるが将来的に自然言語に対応するともっと面白いことになってくると思う。
例えば「夕暮れの海沿い」とか「晴れた日の富士山」とか「誕生日の記念撮影」とか、そんな風にして分類・検索ができるようになると単純に便利というだけではなく、その便利さを前提として写真を撮影し、アップロードして、共有することになるだろうから、カメラや写真というものに対する付き合い方が、全く変わってしまうかもしれないと思う。
と、そんなことを思いながら、動物園に言った時に撮影したはずの「パンダ」の写真が検索しても出てこないところを見ると、まだまだかな、などと思ったりもするのですが。
最高のリーダーは何もしない?
藤沢久美氏著「最高のリーダーは何もしない」を読んだ。
まあ、リーダー論、組織論というものは昔から巷に溢れているので、その類の1つであはある。
過去、組織論として読まれてきた作品としては、有名なところではドラッカーの「マネジメント」やカーネーギーの「人を動かす」は古典的名著と言っても良いだろう。
日本の著作であれば松下幸之助の「リーダーになる人にしっておいて欲しいこと」や「失敗の本質」などもあるだろう。
最近ではスポーツの世界からヒントを得ようと言う流れがあるようでラグビーのエディー・ジョーンズや野球では工藤公康、などの関連が今は旬だろうか。
これらのリーダー論については違う見方もあれば共通する部分ももちろんあって、と言っても自分も全てを読んでいるわけではないので偉そうなことは言えるわけではないけれども、そのずれている部分というのは時代によりちょっとずつ変化しているように思われる。
また、メジャーな本というのは実際に組織のトップに経った人が自分の経験から語っているものが多いのであるが、この辺りについては名プレイヤーが名監督に非ず、などと言われるのと同じで、リーダー論のプロの方が有用な場合もあるのかな、なんてことは思ったりする。
もっとも、組織を動かしていく上でリーダーが鍵になるというところは今も昔も違いはないと思うし、本を読む上では著作者が誰であるかよりも、その中身が大事であることは自明の理であろう。
しかし、以前のリーダー論と最近のリーダー論、あるいは組織トップの人が書くものと、外部から見た人が書くものとで多く見られる違いもある。
その中で特に最近、際立っているのがリーダーと部下との関係性であると思う。
従前のリーダー論であれば、その論は「ぶれないこと」「公平に評価をすること」「能力を見極めること」「機会を与えること」などが中心であったかと思う。
これらのことが以前と違いがあるわけではないけれども、今のリーダー論はこれらに加えて「部下との信頼関係を構築すること」「部下の将来への不安を取り除くこと」「コミュニケーションを密接にすること」「失敗を許容して、次へのチャレンジへと結びつけること」などが求められている傾向にある。
これは社会がどんどんと複雑化していて業務マネジメントが難しくなっていることや時代の変化が早くなってきているために上司たる人物が以前持っていたスキルが陳腐かして通用しなくなる傾向があるため、というところが大きいだろう。
つまり部下が何をどのようにすれば仕事が上手く回っていくのかについて上司が全てを把握できていれば、仕事をどのようにすすめるかについては上司が範を示して、あるいは説明していけば進んで行っただろう。
しかし、今はそうはいかない領域というのがどんどんどと増えてきている。
あらゆるビジネスでSNSを始めとしたインターネットで情報発信は必要不可欠になってきているし、ビッグデータ解析というのもどんどんと使われるようになってきている。
結果として、それらの情報に接する機会の多い立場の人物やそれらの情報編集能力・解析能力に長けた人物が、正解を早く導き出せることになる。
結果、上司として求められる能力も、ネットワークがある以前とはすっかり様変わりしてしまっているわけである。
と、前振りが長くなってしまったが、そういう時代の変化の中で求められるリーダー像を示すのが本書である。
面白かったのは以前であればリーダーというのは、時には嫌われ役になる、という面が会ったのだが本書の中では「嫌われるリーダー」ではなく「好かれなくてもいいが、嫌われないリーダー」というリーダー像を提示している。
これは現代のリーダーが「ビジョン」を共有することが大事であるということが背景にあるだろう。
ぐいぐい引っ張っていくタイプのリーダーであれば嫌われてでも1つの方向に向いていくことができればいいのだが、社会が多極化している現代においては一方向に向かうだけでは上手くいかない場合もある。
様々なところにセンサーを張り巡らして、チャンスがあればどんどんとチャレンジしていかなければならないこともあるだろう。
その場合、当初目指していた方向とは違う方向に向かうこともあるが、その時にはビジョンを示しておき、その範囲であれば進んで行って良いと示して置かなければスピードを持った意思決定ができないであろう。
本書は、そういう論理的なところまで踏み込んで行くという本ではないけれども、様々な実例を引いて説明をしているので、なるほど、と膝を打つことも多い。
また、この本のようなリーダー論であるが、必ずしも組織のトップの人が必要としているわけではないだろう。
ある組織で何年か経験を積んでいくれば、小さな部門のリーダーになることも少なくなはないはずだ。
そういう小さなレベルであってもリーダーとしての振る舞いは求められるはずである。
そういう時に現代的リーダー論の入り口として一助になるだろう。
もっとも、論理的であったり体系的であるわけではないので、気楽に読めるリーダー論の読み物と言ったものであるので、ちょっとした通勤時間の合間やふとした休みに軽く読むというのが向いているだろう。
最高のリーダーは何もしない―――内向型人間が最強のチームをつくる!
- 作者: 藤沢久美
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2016/02/05
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ポリアの思考術
今年は本を50冊読もうという目標を持ってスタートした。
そんな今年の一冊目に読んだ本が丸善出版の「数学×思考=さっくりと いかにして問題をとくか」だ。
これを最初に一冊にしたのには特に意味はなくて、今までに積ん読になっていた本の中では比較的読みやすかったので、たまたま読んだというだけである。
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と、そんな読んだ経緯はともかくとして、さて本の内容だ。
この本は数学者のポリアが記した「いかにして問題を解くか」という著作に記されたポリアの教えエッセンスを抽出して一般向けに記されたものだ。
ポリアの教えは25箇条からなっており、物事を論理的かつ効果的に解決していくための物事の見方をしたものであるが、残念ながらその文章を読んだだけでは分かりにくいものもある。
例えば問題解決のためのステップ1の3は「適当な記号を導入して図を書いてみよう」となっている。
数学の教養のある人なら、ウンウンと頷くかもしれないが、その人達を除けば何がなにやらということになりかねない。
その他の教えもそんな調子で、少し分かりにくいポリアの教えを噛み砕いて教えてくれるのがこの本である。
例えばポリアの教えのステップ1の4「条件の各部分を分離してみよう」では「ある都市にピアノの調律師は何人いるか?」という問題を題材にして解説している。
はて、そんな問題を解いて何か意味があるのだろうか?、ともしかしたら思う人がいるかもしれないけれども、ビジネスをしていく上で、この商売において潜在顧客がどのくらいいるのだろうかとか、実質的な競合相手がどのくらいいるのであろうかなどという問題に対して、はっきりした数字がない中で挑戦していかなくてはならない場面は決して少なくないはずだ。
しかも、そんなはっきりしない状況でありながらも、例えば推定する潜在顧客の数が10万人である場合と100万人である場合には販売予測やプロモーションの展開など全く違う予想になってしまう。
従って、一見数学的に見える予測の問題であっても、実はビジネスでも教育でも政治的な活動でも、重要なものだということが分かると思う。
とは言えデータのはっきりしない状況では完璧に見積もるということは困難である。
しかし、完璧な見積もりはできないにしても、概ね誤差の範囲を桁が違わない程度で推測することができれば十分に有効であるし、そのためにはどのようにすれば良いのかというのがこの問題に要点で、これは「フェルミ推定」と言われている。
この問題を解くには専門的な数学的な知識は必要ないし、推定するための計算も難しくはない。
ただし、考え方を理解している必要がある。
さて、問題のピアノの調律師の数というのは、その都市における人口とその住民がピアノを持っている割合、そしてそのピアノが一年で何回調律が必要とされるのかということ。
これが分かれば一年間のピアノ調律の需要があるのかが判明する。
そして、その需要に対して調律師が何人いれば需要が足りるのか、ということを考えると調律師の人数が推定できる。
これらの予測に用いるデータは、都市の人口は統計データで明らかであるし、ピアノの普及率はある程度の推計でも大雑把には間違えないだろう。
細かく知りたければピアノの販売データと廃棄データからおおよその予想が付く。
ピアノの調律が年に何回必要で、1人の調律師が年に何件ほどの調律がこなせるかは経験がないと分からないが、これはピアノの調律師か、ピアノを所有している人にインダビューすれば分かるだろう。
こうして集めたデータがあれば、特に数学の教養がなくても、ある年におけるピアノの調律師の人数を求めることが出来るわけだ。
本の中では、もうちょっとざっくりとした人数を計算によって求めているが、いずれにしても概数を推測するということでは、役に立つ考え方だろう。
こうやってポリアの教えの幾つかについて、ざっくりと考えることによってでも、概ねの数字の大きさや考える方向性が分かるんだよ、というのが本書の要点だ。
そんな風にして数学などに馴染みのない人であっても、色んな値の推計などができるようになるということが書いてある。
現代はコンピューターが発達して様々なデータを集積することがどんどん容易になってきていて、その集めたデータから何が見えてくるのかを考えるのが人間の仕事になってきている。
そういう時代には情報処理のスピードではなくて、方向性を見つけることが重要であり、それを身につけるためにはこういう本でデータをどのように見れば良いのか知ることは一助になるのではないかと思う。
思えば多感な時期でした
今週のお題「人生に影響を与えた1冊」ということで、思い返せば本から受けた影響というのは、それなりにあっただろうと思う。
少年期に影響を受けたのは、もちろん小説なども読んでいて赤川次郎、司馬遼太郎やらを読む一方でライトノベルなんぞも読んでいたが、印象に強く残っているということで言えば科学系の書籍だろうか。
小学生の頃で言えば「科学的とはどういうことか?」という本で、いわゆる科学的思考を養う上で影響を受けた一冊であったように記憶しているが、何しろ小さい頃に読んだ本であるので、どのくらい影響を受けたのかということについては記憶が定かではない。
物心がしっかりとついてから読んだ本ということでは「ファイマン物理学」「ホーキング博士宇宙を語る」などが印象に残っている。
その後、科学を学ぼうという意識を持つうえで、それを強化することになった本である。
しかしながら、科学について強い興味を持つに至った一番大きな影響を与えたのはそれらの書籍ではなくNHKで放送された「アインシュタインロマン」であったから、残念ながら、これらを人生に影響を与えた一冊というには、ちょっと違うのかなと思う。
では、科学を学ぼうという意識とは別に人生全般について指針と成るような本がなかったかと考えてみると、一番影響を受けているのではないかと思うのは司馬遼太郎の「21世紀に生きる君たちへ」だ。
これは小学生に向けて書かれた司馬遼太郎が伝えたいメッセージのこもったエッセイであり、元は小学生の教科書へ掲載すべく書かれたものであった。
第二次世界大戦を経験して、日本という国の成り立ちについて深く考え、歴史小説を書くまでになった司馬遼太郎が、過去の歴史ではなく未来に向けて書いた若者への応援歌のような文章である。
内容としては小学生の、しかも中学年程度を想定して書かれていると思われるので、決して難しい内容ではない。
しかしながら、何度も推敲して書かれた文章は、一言一言に無駄がなく、我々が人生を生きていく上で何をこころがけていくべきであるのかということを見事に書ききってあり、それは決して子どもたちだけではなく、実際に21世紀という時代を生きている我々に対して訴えかけてくるものがある。
決して大げさな文章ではなく、どちらかと言えば淡々とした内容ではあるのだが、それが逆に読むものを深い思いへと駆り立てるものだ。
決して長い文章ではないし、おそらくこれを掲載する多くの書籍が、もう少し上の年齢層に向かって書かれた「洪庵の松明」という一遍も収録しているが、両方合わせても10分ほどで読めてしまうほどの内容である。
しかしながら、そこに込められたメッセージは司馬遼太郎がそれまで生きてきた何十年の思いが感じられる。
この本は自分の人生を歩んでいく上で、具体的にこういうふうにしようとか、そういう決断を導くような本ではないが、今でも時々読み返しては、自分の生き方が正しいのかと羅針盤になるような一冊だ。
そして、これからも人生という航海を進む上で、進むべき方角を教えてくれるものであり続けるろ思っている。
東京までの道程
今夏、世界レベルのスポーツ大会が相次いで行われてニュースを賑わしている。
自分の把握している程度であるが、世界規模の大会やその予選があり大きな話題となっている競技を列挙すれば「水泳」「陸上」「バレーボール」「バスケットボール」「柔道」「ラグビー」「テニス」「フェンシング」「野球(U-18)」「シンクロ」「レスリング」「サッカー」などなど。
もちろん、リオ五輪の前年ということもあり多くの大会が行われるというのは当然ではある。
団体競技はオリンピックの参加資格を得るべくして行われる大会があるし、個人競技であってもオリンピック前年ということで大きな注目を集める大会が開催される。
個人種目の場合、競技団体に寄ってはその結果によりオリンピックの出場権を与えるというものもある。
もちろん、オリンピック出場を目指す団体・競技者は、それらの大会に出場して高記録を目指すわけであり、必然的に注目度は高くなる。
そして、それらの結果は来年のリオ五輪の結果を占う上でも参考となるだろう。
しかし、日本人としては来年のリオ五輪はもちろん気になるところではあるが、それと同等かそれ以上に東京五輪のことについても気にせざるを得ない。
このところニュースでは国立競技場の建設問題や東京五輪のロゴ問題などの競技の本質とは少し離れた部分での話題が多く残念なところではあったが、これだけのニュースになるということはやはり注目度は大きいのだなと改めて実感させられる。
そして東京五輪は国民の関心事であるとともに日本のスポーツ振興において大きな分岐点になり得るイベントであるし、究極的な目標として日本中のアスリートや競技団体が目標とするところであるだろう。
そんなオリンピックのことを自分は5年も先、というかなり未来ということでここ最近まで過ごしてきた。
けれども競技の実績を残すということを考えると意外に遠くない未来なんだな、ということを今年の夏の各種世界大会で実感させられた。
象徴的なのは世界陸上で行われた男子100m決勝だろう。
ウサイン・ボルトとジャスティン・ガトリンの対決が話題となった北京の世界陸上であったが結果としては、この両者が接戦で、わずかに100分の1秒差でボルトが金メダルを獲得した。
この2人の実績を見るとガトリンは今から11年前のアテネ五輪の男子100mの金メダリストであり、ボルトは7年前の2008年の北京五輪の男子100m金メダリストである。
つまり全ての競技ではないにしても、世界のトップクラスで戦えるレベルの選手というのは、そう何人もいるわけではなく、そしてその一部の選手が長期間にわたってしのぎを削る世界であるということだ。
そのように考えると東京五輪まで後5年という時期に差し掛かっている現在、日本人選手が世界に伍して戦えている種目はどれほどあるのか、ということを考えると少し暗い気持ちにならざるをえない。
もちろん、世界陸上でいえば桐生祥秀であり、世界水泳でいえば萩野公介が不在であったということを考えれば、結果を鵜呑みにしなくてもいいと考えることもできる。
だが、反面1人の選手が出場しないだけでその種目の実績が大幅に交代するのであれば、日本には本当にその種目における実力が備わっていないということではないだろうか?
どうしても普通に生活をしていれば5年という年数は決して近い未来ではないけれども、スポーツの強化ということや人材の育成ということを考えれば5年という時間はとても短いといわざるを得ない。
近年、躍進しているフィギュアスケートやバトミントンなどの競技はジュニア時代の選手を育成する地道な努力を10年以上に渡り行ってきたとことが、ようやく結果に結びついてきているとも言われている。
本当にある競技の裾野を広げて、底上げをしようと思えば5年という年月は中途半端であり、揺るぎない人気と実力を身に付けるというところにまでは至らないだろう。
しかし、そんな育成・強化ということを考えれば決して長くはないであろう時間の中でどのように東京に結びつけていくのか、あるいは東京の先に日本にスポーツ文化を根付かせて世界で輝く人材を育成していくのか、中長期の視点を持って捉えることができる最後に近いタイミングではないだろうか?
来年のリオ五輪が終われば、次は東京ということで様々な競技団体に対して、どうしても結果が求められていく段階に入っていく可能性が高い。
そうなる前に、競技としての底辺を厚くして、実力をつけて、未来につなげていくための構想力や組織力を整えていくことができるのか。
そのためには、意外にここから1、2年ほどが正念場なのかもしれない。
そんなことを考えさせられた8月から9月のスポーツシーンであった。
学びと時間
どうもブログがさぼり気味。
ブログを書くということは文章を構成して組み立てて形にするというスキルを必要としている。
日頃から長文を書くことが少ない身の上としては、このブログをサボってしまうということは、文章能力や伝える力の低下に直結するわけで危機感はあるものの、一方で生活パターンの中に組み込んでいない現状では、こんなものなのだろう。
しかし、知力であれスキルであれ、どんなことであっても練習をして日々積み重ねていくことによって研鑽されていく一方で、やらなければ衰えていくものである。
人間が、何がしかのスキルなどを身につけるためには、およそ1万時間ほどがかかると言われている。
スキルと言っても趣味というレベルを超えてある程度のプロに近いレベルのスキルということではあるようだけれども、この時間についてはちょっと計算してみると納得ができる。
年間2000時間の労働時間を持っているとすると約5年ほどで1人前ということ。
スポーツなどだと、子供はそこまで時間をかけることは難しいが、仮に半分の1000時間くらいを部活に使っているとして10年くらい。
小学生で始めたスポーツが大学生や社会人くらいになると技術的にも安定してくるということで感覚的にも頷けるレベルではないだろうか。
まあ、アメリカで学者が研究をした結果ということなので、サンプルの質がどこにあるかは分からないが、まとはずれということはないだろう。
さて、はてなブログの今週のお題「いま学んでみたいこと」についてということで、何かを学ぶということを考えたら、そんなスキルを習得する時間の話を思い出したのだが、何を学びどの程度を目指すのかということにより、かけるべき時間は違ってくる。
1万時間というのは社会人として求められるレベルの仕事のスキルであるとか、プロやセミプロ級のスポーツ選手などのレベルである。
まあ、それなりに形になるレベルであればTEDでは20時間なんていうプレゼンもあったが、これだと形になるレベルか。
自動車学校の教習時間や週1程度の学校の授業時間が、比較的これに近いところだろう。
ある程度しっかり学んだというのであれば100時間ほどはあった方がいいのではなかろうか?
100時間というと専門学校などの学校で1ヵ月ほど学んだり、週3日、1回1時間で1年続けたくらいになるが、そこまでやればそこそこのレベルには達するイメージだ。
これが得意ですと自慢をして言えるレベルに達するのには、ということであれば500ー1000時間くらいだろうか?
もちろん、時間を費やせばいいというわけではなくて、生まれてから今まで100時間以上を優に上回るほどの時間を使ってきた日常生活の様々な行動が形になっているかというと、学ぶという意識がないために、そんなことにはなっていない。
もちろん、四六時中スキルを高めようだなどと意識していては倒れてしまうので、もちろん無理な話だが、取り組む姿勢がなければ、そんなものということだ。
そう考えて時間のことを思うと、何か1つに取り組むというのが意外に自分の今の生活スタイルでは難しいなということにも思い至る。
自分の場合は一日の中でルーティーンと言える作業をかなりきっちり組み込んでいるので、余暇時間でありながら自由時間でもなかったりして自分で自分の首を締めている面がある。
知識を増やしたい、スキルを身に着けたい、という思いがないではないけれども、そのために必要な時間をどのようにして作っていくのか、時間の取捨選択というところがまずは必要なことなのだろう。
<追記>
時間のことを考えているうちに、ふと思い出したことがある。
老後の自由時間の話だ。
老後の自由時間は人によって多少違いはあるけれども一般的に言われるのは8万時間から10万時間ほどだ。
もちろん、これは定年退職をして平均的な寿命まで健康に生きていれば、という前提なので全ての人に与えられるわけではないし、一方でそれ以上の時間を得られる人もいるだろう。
しかし、いずれにしても老後と言われる時間はたっぷりとある。
プロやセミプロ級のスキルを8~10個も身につけられるだけの時間だ。
もちろん、全てを自己啓発には使えないかもしれないが、3つ4つのスキルを身につけるだけでも大いに楽しい人生になるはずだ。
良く年をとると若さが羨ましいということを言われるが、現代の日本においては老いることが本当は羨ましいのではないだろうか?
若くもなく、老いてもなく、しかし人生の中で岐路に立つと言われる年代としては上も下も、そして今も大事なのだとは思うけれども。